38-3「どうしたら正しく理解することができるか?」74

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

聖書の正しい読了観⑶

◉「地理的条件が媒介に」

聖書世界の「歴史的俯瞰」を、「救拯史」の方向と、「地理的条件」との関係で観てみます。

聖書の「救拯史」では、その歴史の方向決定に対する「媒介」として、地理的、物質的条件が用いられています。

イスラエルが「選び主」に「聴従的判断」をする時と、「背反的判断」をする時とに、この「媒介」の用い方が現われています。

太祖アブラハムが西方に移住したのは(創世記12:1-3)、この地理的、物質的条件を「媒介」としたもので、そこに彼の判断と聴従とが現わされ、彼の裔(すえ)が選民としての方向を採ることになったのです。

このアブラハムの場合は、

「あなたがたの先祖たち、アブラハムの父で、ナホルの父でもあるテラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた」(ヨシュア記24:2)

とありますから、アブラハムのいた場所は、華美で力ある「多神教の都」でした。

このアブラハムに対して、「わたしの示す地へ行け」と命じたのです。

また、アブラハムのこの召命の記事で、極めて短かいのですが、意味深長な言葉が記されています。

それは、「アブラハムは主が言われたように、いで立った」という言葉です(創世記12:4)。

「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召をこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8)

とは、この言葉の新約聖書ヘブル書の註釈です。

要するに、その召命の時、アブラハムが見出した「現実」は、75歳という「年齢的条件」からいっても、上記の「地理的条件」からいっても、すべて神の言葉の「約束の実現」に対して、否定を意味するものでしかなかったのです。

しかしそれ「にもかかわらず」アブラハムは、人間的条件とは「非連続的」に働く、「神の言葉の形成力」を信じて決断的に服従したのです。

始祖ヤコブとその一族とがエジプトに下ったのは(創世記41:57、46:2以下)、ききんを「媒介」としたもので.ヤコブは「選び主」の言葉に聴従することによって、約四百年間エジプトという豊饒の地が、一族の発展の機会となったのです。

イスラエルが国を営んだ「カナンの地」が小さかった事は、彼らの国をアッシリアのように、またエジプトのように強大にさせませんでしたが、このことはイスラエルの宗教的あり方に対する重要な「媒介」となりました。

もしこの国土が広大で肥沃であって、彼らの国が強大になっていたら、彼らは「選び主」を忘れさり、アッシリアのように、またエジプトのようになってしまっていたでしょう。

しかし国土が小さかったために、弱小な国家しか営むことのできなかった彼らは、ーー少なくともその少数者の間においてはーー、彼らの先祖たちがその国を建て、その敵国に勝利を得たことに対して、

「彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。
ただあなた(「選び主」)の右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。
あなたが彼らを愛されたからです。」
と言い、また彼ら自身の勝利については、
「私は私の弓にたよりません。
私の剣も私を救いません。」(詩篇44:3、6)

とへりくだることを学んだのです。

またその亡国に際しては、

「イスラエルの人々は、ヤロブアムの犯したすべての罪に歩み、それをやめなかったので、ついに、主は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、イスラエルを御前から取り除かれた。
こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリヤへ引いて行かれた。今日もそのままである。」(列王記17:22以下)

と反省することができたのです。

「普通史的」に見れば、彼らの国が勝った時は、相手の国が弱小であったためでしたし、彼らの国が滅びたのは、その物質的資源が貧弱で、その人的資源が僅少であったためです。

この広義の地理的、物質的条件は、彼らの宗教的あり方に対する重要な媒介となったのです。

この「救拯史」においては、この地理的、物質的条件が、民族と個人との真実なあり方を、神の前に暴露される「媒介」となりました。

特に荒野彷徨四十年間のイスラエルの生活において現われています。

この間イスラエルは、飲料水と食糧の欠乏のため、常に神の前にその「つぶやき」をくり返えしました(出エジプト記16:1以下、17:1以下、民数記11:4以下、20:2以下など)。

荒野四十年の生活そのものも、民族としての彼ら自身の真相暴露に対する「媒介」となったのです。

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。
それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」(申命記8:2)

と言われている通りです。

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