37-9「どうしたら正しく理解することができるか?」67

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(9)神と人との対話

⑼イエスと論敵との「対話」

◉論敵が悪意でイエスを陥れようとして、「対論」を仕向けた場合の続きです。

夫が死んで夫を数人かえて後に死んだ婦人の妻としての関係に対する問い(マルコ12:18以下と併行節)、

また、
◉「復活はない」と主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。

「先生。
モーセは私たちのためにこう書いています。
『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』
さて、七人の兄弟がいました。
長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。
そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。
三男も同様でした。
こうして、七人とも子を残しませんでした。
最後に、女も死にました。
復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。
七人ともその女を妻にしたのですが。」
イエスは彼らに言われた。
『そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。
人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。
《わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である》
とあります。
神は死んだ者の神ではありません。
生きている者の神です。
あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」

◉伝統的立場からの論難

悪意からではありませんが、
◉ 「伝統的立場」だけに立っているので、イエスの行為が理解できず、
◉イエスを「父祖の伝統の破壊者」として論難した場合の続きです。

イエスの弟子たちが
◉「安息日」に麦の穂を摘んで食べた場合の論難

「ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。
すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。
すると、パリサイ人たちがイエスに言った。
『ご覧なさい。
なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。』
イエスは彼らに言われた。
『ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。(Ⅰサムエル21:1ー6、下段①参照)
アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家に入って、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。』
また言われた。
『安息日は人間のために設けられたのです。
人間が安息日のために造られたのではありません。
人の子は安息日にも主です。』」(マルコ2:23節以下と併行節)

ダビデは、英雄であり、メシア(キリスト)の理想形とされていました。

そのダビデの行為を以って、
◉「伝統の破壊者」という論難を封じたのです。
【参照Ⅰサムエル21:1-6】

「ダビデはノブに行き、祭司アヒメレクのところへ行った。
アヒメレクはおののきながらダビデを迎えて言った、
『どうしてあなたはひとりですか。
だれも供がいないのですか。 』
ダビデは祭司アヒメレクに言った、
『王がわたしに一つの事を命じて、
《わたしがおまえをつかわしてさせる事、またわたしが命じたことについては、何をも人に知らせてはならない》
と言われました。
そこでわたしは、ある場所に若者たちを待たせてあります。
ところで今あなたの手もとにパン五個でもあれば、それをわたしにください。
なければなんでも、あるものをください。』
祭司はダビデに答えて言った、
『常のパンはわたしの手もとにありません。
ただその若者たちが女を慎んでさえいたのでしたら、聖別したパンがあります。 』
ダビデは祭司に答えた、
『わたしが戦いに出るいつもの時のように、われわれはたしかに女たちを近づけていません。
若者たちの器は、常の旅であったとしても、清いのです。
まして、きょう、彼らの器は清くないでしょうか。』
そこで祭司は彼に聖別したパンを与えた。
その所に、供えのパンのほかにパンがなく、このパンは、これを取り下げる日に、あたたかいパンと置きかえるため、主の前から取り下げたものである。」

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