36-6「どうしたら正しく理解することができるか?」57

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(57)新約聖書第二区分

⑸「聖霊の開示」ーー「教会形成時代」

第一区分では、イエス・キリストの十字架が、
◉「選民の特権意識の「暴露」点であったことを指摘しました。

つづく第二区分は、さらに、教会創設の主体である「聖霊降臨」の出来事が、実は、選民の優越感の
◉「転覆」であることを告げています。

それは教会の起源があくまでも、
◉「超歴史的起源」をもつ「聖霊」の降臨によるものとされたことにより、教会が選民とは、
◉「別次元の存在確認」(アイデンティティ)をもつことが開示されたということです。

つまり、教会の創設は使徒行伝(第二区分の冒頭の書)によると、イエス昇天ののち、

「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
また舌のようなものが、炎のように分かれて現われ、ひとりびとりの上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」(使徒2:1以下)

という記述の示すように、文字どおり、奇想天外の出来事でした。

もっとも、これは生前のイエスによって予告もされていました。

使徒行伝の前史とも考えられているルカによる福音書では、

「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。
だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」(ルカ24:44以下)

というのが、昇天直前のイエスの弟子たちへの命令であったことをしるしています。

つづくヨハネによる福音書は、ほとんど全書が、
◉聖霊待望の書といっても過言ではないほどですが、とりわけひとの注意をひくのは、次の言葉です。

「祭りの終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、
『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』。
これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。
すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである」(ヨハネ7:37以下)。

渡辺善太博士は、この特定の箇所こそ、聖書の考え方の根底にある
◉「時代別意識」を証拠立てるものであることを指摘しています。

つまり、教会時代は、その本質においては
◉「聖霊時代」なのです。

しかも聖霊への言及は、旧約聖書でも散見はされますが、教会の創設者としての聖霊は、
◉「集団的」「公同的」である意味において、これまでの個別的なスケールのそれからは
◉「画時代的」に峻別されるべきものです。

教会が、他でもなく、
◉聖霊(召天したキリストの霊)に起源をもつものとして開示されたということは、教会が、イスラエルから派生したという
水平的・連続的関係の否定を宣言することにほかならず、それこそ、
◉「垂直的突入的出来事」であるというのです。

否、教会は、イスラエルよりはるかに先行して、
◉「世の始め」のさきから、キリストの中に選ばれていたというのです。

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。
神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のないものとなるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」(エペソ1:3以下)

としるされているとおりです。

イエス・キリストの霊としての聖霊は、また
◉「真理の御霊」とよばれ、それによらなければ、あらゆる真理を知ることは
◉「不可能」なばかりか(ヨハネ16:13)、この聖霊によらなければ、
◉「イエスは主である」という告白も絶対に不可能なのです(第一コリント12:3)。

そのような聖霊が、他の時でも、他の群れにでもなく、ただひたすら、教会にのみ与えらるべく「排他的」に保留されていたのです。

「この奥義は、いま(教会時代)は、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである」

とはその事実を証しする言葉であり、それは一度ならず反復力説されています(エペソ3:5以下、コロサイ1:26以下、第二コリント3:12以下、ロマ8:1以下、ルカ9:45、10:24、18:34等参照)。

【参考】奥義としての教会時代
「この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。
それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。
わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。
すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、 更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。
それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、 わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。」(エペソ人への手紙 3:5-11)

「その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。
神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。
この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。
わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。
それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。
わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。」(コロサイ人への手紙 1:26-29)

「こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、 そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。
実際、彼らの思いは鈍くなっていた。
今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。
それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。
しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
主は霊である。
そして、主の霊のあるところには、自由がある。
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。
これは霊なる主の働きによるのである。」(コリント人への第二の手紙 3:12-18)

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。
律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。
すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。
これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。」(ローマ人への手紙 8:1-5)

「しかし、彼らはなんのことかわからなかった。
それが彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである。
また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた。」(ルカによる福音書 9:45)

「あなたがたに言っておく。
多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。」(ルカによる福音書 10:24)

「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。
この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった。」(ルカによる福音書 18:34)

なお注目すべきは、選民全体の概観の総括ともいうべき、
「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。
それは、あなたがたの先祖たちと同じである」
という殉教者ステパノの口をかりた、選民史弾劾の言葉です(使徒行伝7:51以下)。

ところで、このような聖霊の保留された教会とは、新約聖書では
◉「キリストのからだ」として位置づけられ、その「キリストのからだ」の肢体とされる信仰者は、この聖霊によって初めて、キリストの「証人」とされます。

イエス在世中の弟子たちの現実的関心は、やはり、イスラエルの国の復興におかれていました。

だが、彼らに命じられたのは、ほかでもなく、地の果てまでも
◉「主の証人」となることでした。

それを告げるのが次の記事です。

「さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、
『主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか』。
彼らに言われた、
『時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。
ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう』」と(使徒行伝1:6以下、4:19以下、4:31、9:31、15:28、20:22等)。

ここで
◉「地の果てまで」といわれていることに注意しなければなりません。

◉「神の地平」(ホリゾント)は、全被造物を包含しています。

ゆえに聖霊とは、全世界、全被造物の救いを求める
◉神の「うめき」なのです。

すなわち、その聖霊は、
「みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかししてくださる」
と同時に、
◉「虚無化の一途」をたどらされつつある全被造物の救いを求める「うめき」に対して、われわれの耳と心を開かれる者です。

「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。ーー
御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。
なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」
といわれています(ロマ書8:22、8:26以下)。

教会を先導する「首(かしら)」であるキリストの霊(聖霊)の
◉「うめき」は、全被造物にむかいます。

しかしながら、
◉「現実の教会」の「在るがまま」ーーすなわち
◉「見える教会」は、そのまま理想的な、
◉「在るべき教会」でもなく、
◉「見えない教会」でもありません。

むしろ、「在るがまま」の教会は、
◉「特権意識」に安住しがちであり、
◉「特典は責任」を意味し、より先に召された者、より多く光を与えられた者ほど、より多くを求められ、かつより
◉「きびしく審かれる者」であることを忘れがちです。

より先に選ばれた者とは、断じて
◉「義人」でもなく、生まれつきの
◉「強い者」でもありません。

◉ただ主によって強くされた者です。

それゆえ、
◉「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない」
とパウロは言わざるをえなかったのです(ロマ書15:1、コロサイ1:11、第二テモテ2:1等)。

私たちはみなひとりで
◉「見える者、先立つ者、強い者」であろうとし、
◉「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしは」という自負心にあふれる時もあります(マルコ14:29参照)。

◉「他の弱さ」を負うことが求められている
◉「強者」は、決して、生まれつきの人間の強さを意味せず、むしろ、生まれつきの、在るがままの強さを否定された者、否、その在るがままの
◉強さの虚構性を暴露された者を意味しています。

聖書はそれが、イエスの弟子ペテロにおいて劇的に露呈されたものとみています。

その地上での日常生活が、
◉「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」
という、預言者イザヤの言葉の具現であった師イエスの弟子、とりわけペテロの
◉「負えない」姿が、その師の在り方との皮肉な対照をなすように記述されていることが留意されます。

そのことは、
ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。
ついては、何がいただけるでしょうか」(マタイ19:27)
というペテロの献身の
◉虚構性の自己暴露を通し、
「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」
と自負していたペテロが、その師の予告どおり
◉「鶏が鳴く前に、三度イエスを知らない」といって裏切った事実を叙述していることを通してあきらかにうかがわれます(マタイ26:34以下等)。

これによっても、
◉「献身」というような、うるわしい言葉さえ、それが
◉生まれつきの人間のそれであるかぎり、いかにもろく、崩れやすく、したがって
◉「幻想的」なものであるかを、聖書は洞察しています。

以上のような洞察を与えられた者としては、

「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。
その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。ーー
わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである」(第二コリント4:7以下参照)

という告白しか許されていないことを知らねばならないのです。

選民イスラエルが、
◉「真のイスラエル」をさし示すための
◉「否定的媒介」であったように、キリストをかしらとする教会もまた、その
◉「証し人」という性格を
◉「否定的媒介」としてしか果たすことは許されていません。

なぜなら、教会のかしらである主は、
◉「見える」と言い張る罪を鋭く指摘して、
「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。
すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」(ヨハネ9:39以下)
と言われています。

また、
◉「先立つ者」に対しては、
「あとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある」
「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」
と言い(ルカ13:30、18:14他)、

◉「強い者」に対しては、
「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(第二コリント12:9-10等)
と言われる者だからです。

教会の証しの根本構造が
◉「否定媒介」のそれであることを最も神学的に照明してくれるのはヨハネによる福音書です。

それは例えば、証人は彼が「光ではなく、ただ、光についてあかしをする」者であるといって、「ではなく」という否定面を強調し、証言者は、被証言者キリストに対しては、「彼(キリスト)は必ず栄え、わたし(証言者)は衰える」者であることを力説し、さらにその言葉によって、イエスを信じたサマリヤ人をして、サマリヤの女に対して言わせたのは、
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。
自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救い主であることが、わかったからである」
という否定的な言葉です(ヨハネ1:8、3:29-30、4:42等)。

隠された
◉「被証言者キリスト」は、顕わされるために隠され、
◉「教会の証人」は、隠されるためにのみ顕わされているという証しの逆説において、逆対応の不可逆性の聖書的独自性が、示されているといえます。

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信仰雑話>36-6「どうしたら正しく理解することができるか?」57、次は36-7「どうしたら正しく理解することができるか?」58
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