36-7「どうしたら正しく理解することができるか?」58

ホーム聖書通読ガイド信仰雑話3

(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(58)新約聖書第三区分

⑹「審判の真実」ーー「教会の終末時代」

黙示録は、神の
◉「審判の真実」ですが、そこでは、イスラエルを中心としてではなく、世の始めのさきから屠られた
◉「神の小羊キリスト」の再臨による、宇宙的回復が、象徴的にのべられています。

前掲の、聖霊が開示する「宇宙的連帯感」ーー全被造物の回復へのうめきーーは、いやが上にも対照的に、個人個人を事実上支配する特権意識を照らし出さずにはおきません。

◉個は全を「負」わず、個はかえって全に背反します。

「世の罪を負う」十字架の主は、
◉「負えない」人間に、
◉「負われて負う途」を開示しました。

つまり、「負う」ことは、ただ自らが「負われた」という
◉「負債感」にのみ比例してきます。

つまり、教会の証人も、
◉「負えない」自己を「暴露」されることによってしか、実は「負う」者とはされないのです。

聖書の告げる神と人との逆対応は、以上のようにゼロ点としての死(無)ではなく、あくまでも対神的「負債感」を照射します。

黙示録は、いうまでもなく、神話的、黙示的表象のヴェールにおおわれている書で、その解釈はきわめて難解とされます。

だが、そこでは、救拯史をとく鍵は、世のはじめから屠られた「神の小羊キリスト」であるということが、全体を貫くメッセージであることはあきらかです。

その終末は、「主の再臨」と「宇宙的審判」の出来事として描かれていますが、

「彼らは、小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。
また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」

という表現は、あきらかに、創世記3:15の、
「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。
彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(創世記17:14以下参照)
という、蛇(サタンの象徴)に対して語られたとされる「主の宣言」に対応しています。

このように、
◉パラダイス・ロストを、
◉パラダイス・リゲインドにまで導くところに、隠れた支配者である主の「真実」があります。

それは、

「今いまし、昔いませる聖なる者よ。
このように、お定めになったあなたは、正しいかたであります。
聖徒と預言者との血を流した者たちに、血をお飲ませになりましたが、それは当然のことであります。ーー
全能者にして主なる神よ。
しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります」(黙示録16:5以下)

という句に代表的にのべられています。

創世記の結尾は、兄弟らがその恨みから消そうとしたヨセフに、隠れた歴史支配者への信仰を、

「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました」(創世記50:19以下)

という告白で語らせていますが、そこにさし示されている神、すなわち
◉悪をも「逆用」する歴史の支配者の真実は、信仰者を苦難から逃避させるようなご利益神ではなく、
◉苦難を通して、ついに究極的勝利を得られる主の真実として仰がれています。

再臨の主は、アルパであり、オメガであるゆえに、ひとり、神の時を知る者です(黙示録1:8、22:12以下、その他)。

【参考】再臨の主

「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、
「わたしはアルパであり、オメガである」。」(ヨハネの黙示録 1:8)

「「見よ、わたしはすぐに来る。
報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
わたしはアルパであり、オメガである。
最初の者であり、最後の者である。
初めであり、終りである。
いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。
わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。
御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。
また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。
かわいている者はここに来るがよい。
いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。
この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。
もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
これらのことをあかしするかたが仰せになる、
「しかり、わたしはすぐに来る」。
アァメン、主イエスよ、きたりませ。 主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。」(ヨハネの黙示録 22:12-21)

それにひきかえ、万民、そして教会は、その在るがままの姿においては
◉「時を知らないもの」です。

しかし、その時が、再臨の主に向けられていることを救拯史的遠近法の中でキリストのからだである教会と共に体認させられる者は、その無知の暴露を、究極的勝利をうる歴史支配者の、
◉「愛しながらの暴露」としてうけとめさせられます。

もっとも、この神の真実は「あらゆる人を偽り者としても」それ「にもかかわらず」仰がれる真実であって、断じて、人間的真実の支えに甘えることを許さない性格のものです(ロマ書3:4参照)。

【参考】神の真実

「断じてそうではない。
あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。
それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。」(ローマ人への手紙 3:4)

ーーーー

信仰雑話>36-7「どうしたら正しく理解することができるか?」58、次は37-1「どうしたら正しく理解することができるか?」59
ホーム聖書通読ガイド信仰雑話3

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう