36-5「どうしたら正しく理解することができるか?」56

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(56)新約聖書第一区分

新約聖書も旧約聖書のように、三大区分をもつ構想からなり、それは、
①「神の国宣教時代」(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ福音書)
②「教会形成時代」(使徒行伝および手紙)
③「教会終末時代」(黙示録)
という形で展開していますが、逆対応との関係でみると、それらは、
◉「特権の否定」、
◉「聖霊の開示」、
◉「審判の真実」として跡づけられます。

⑷「特権の否定」 ーー「神の国宣教時代」

選民史の破局は、皮肉にも、選民のメシヤである
◉「イエスを十字架」につけるという歴史的出来事 において
◉「客観化」 されました。

「彼(イエス)は自分のところ(イスラエル)にきたのに、自分の民(イスラエル)は、彼(イエス)を受けいれなかった」(ヨハネ1:11)

としるされているとおりです。

すでに見てきたように、選民とは、いわば神中心的平和共存の
◉「実験民族」 として選ばれました。

そしてその平和共存の条件とは、
◉「より強い者、より多く与えられている者が、より弱い者のために、その特権を放棄する
ということでした。

そのような
◉「特権放棄」は、いうまでもなく、すべての人間のうちにひそむエゴイズムからの
◉「180度の方向転換」(悔い改め) です。

そのように方向づけられ、そのように教育された選民に向かって語られたのが、

「時は満ちた、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)

というイエスの宣教でした。

悔い改めの要請は、端的に
◉「特権意識の放棄」の要請です。

だが、イエスのまわりをかこんだユダヤ人らは、

「アブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは一度もない」(ヨハネ8:31以下)

という
◉「強烈な自負」から、イエスの言葉による
◉「排他的拘束性」 を拒絶し、
互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めよう」(ヨハネ5:44以下)とはせず、
イエスの弟子たちでさえ、その師イエスが十字架につく直前、なお、
自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」 (ルカ22:13以下等)
という争論にまき込まれていたというのです。

特権放棄を迫るイエスを、彼らはついに十字架上に葬りました。

それゆえ、十字架こそは、
◉「特権放棄」に基づく「神の国」(現実) と、
◉「特権固守」 に基づく平和共存を本質とする
◉「自己投映的」な「人の国」(幻想)との激突であり、炸裂でした。

◉「平和は欲しいが、平和の条件としての方向転換は、まっぴらごめん」 というのが、ユダヤ人を含むすべての人の言い分なのです。

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