37-4「どうしたら正しく理解することができるか?」62

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(4)神と人との対話

(4)罪人に抗弁を尽くさせ給う神

旧約聖書は、神と選民・イスラエルとの
◉「契約」に始まります

「『今、もしあなたがた(選民・イスラエル)が、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。
全世界はわたしのものであるから。
あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。
これが、イスラエル人にあなた(モーセ)の語るべきことばである。』
モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼ら(選民・イスラエル)の前に述べた。」(出エジプト19:5ー8)

という出エジプト記の記録が、この神と選民イスラエルとの
◉「合意による契約」の成立の事実を示しています。

この契約に立った神は、 神といえども、民に十分に抗弁の余地を与えずには、罪を決することをしていません。

旧約聖書のどの部分をみても、
一方的に神が民の罪を決したという記録は一切ありません

国家(イスラエル)の滅亡という、選民にとっては最大の悲運でさえも、民の側が、抗弁の余地なしとしてこれを承服するまで
◉「対論」しています。

「あなた(選民イスラエル)には、わたし(神)のほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト20:3)、

「あなた(選民イスラエル)は、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。」(出エジプト20:4)

という、
◉十戒の第一戒第二戒に背いたという、預言者の断罪に対して、民は一言もなかったのです。

「主(神)は正義を行われる。
しかし、私は主の命令に逆らった。」(哀歌1:18)

とは、民族全体の告白でした。

この「対論」を超えて、「対論の余地さえない」とする民族の自覚が、イスラエル宗教を、歴史的にいえば、キリスト教の母胎にしたのです。

上記のようにイスラエルが、十戒の第一
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
と、第二
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
に違背したという事実に対する、

◉「抗弁の余地さえない」とする民族の自覚は、「対論」によって生みだされたイスラエルの良心の全活動の結果でした。

イスラエル民族は、ギリシヤ民族のように哲学にその長所を示しませんでしたが、
◉歴史的運命に対する良心的反省で、その特徴を示したのです。

これは選民イスラエルの間に良心を地盤とする「神から人へ」「人から神へ」の対論があったからこそ培われたものです。

【参考】哀歌梗概

哀歌の主題は、「民族の破局における認罪と悔改め」です。

人間の確信は、常に傲慢と結びつきます。

選民は古くは
◉「もろもろの町のうちで女王であった者」でしたが、その誇りが露骨となった結果、敗戦を味わわされ、「今は寂しいさまで坐し、やもめのようになった」と歌われています(哀歌1:1)。

「すべて道行く人よ、あなたがたはなんとも思わないのか。
主がその激しい怒りの日にわたしを悩まして、わたしにくだされた苦しみのような苦しみが、また世にあるだろうか、尋ねて見よ」

とは、選民の破局の並ぶもののない悲哀を訴えた言葉です(哀歌1:12)。

◉最も大いなる光を与えられた者は、その大いなる光によって厳しく審かれます。

【参考】ヨベルの主
選民の社会的不義に対する
◉「聖かつ正なる選び主」の怒りと忍耐の疼きの「人格的結晶」を
◉「苦難の僕」として描きだしたのがイザヤ書です。

その「苦難の僕」とは、

「貧しい者に福音を宣べ伝えーー
心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、『主の恵みの年』とわれわれの『神の報復の日』とを告げる者」(イザヤ書61章)

としての「無条件の釈放の告知者である『ヨベルの主』」です。

イエスは、このイザヤ書の言葉を引用するだけでなく、ナザレの会堂で、この言葉の引用者こそ、
◉「ヨベルの主キリスト」即ち
◉「神の国キリスト」であると証言するのが、新約聖書のルカによる福音書です(ルカ4章、8:10以下、10:9、11:20、17:21、19:44等)。

「ヨベルの年」のこの規定を、
◉「万人が絶対に避けられない」という訴えをロゴス化(論理化)したのが、
多く与えられた者からは、多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求される
という、ルカによる福音書に反復されている警告です(ルカ12:48、3:5-6、4:18以下、11:50以下、14:11、17:10、アモス3:2等)。

十字架の主イエスこそ、
◉「万民の罪を根源的・個別的負債として照らし出す、無条件的釈放者である『ヨベルの主』」であることを証しするルカによる福音書を始めとして、
◉「万民平和共存を求めながらも、その条件である特権意識の放棄を拒みつづける原罪としてのこと自己矛盾」を、
◉「ひとりの例外もない」と万人につきつけるのが、新約聖書の第一区分(四福音書)です(マタイ15:1-9以下、マルコ1:15、7:8、10:45、ルカ11:48以下、16:14以下、ヨハネ3:18以下、5:38以下、9:41以下等)。

【参考】マタイ15:1-9以下、マルコ1:15、7:8、10:45、ルカ11:48以下、16:14以下、ヨハネ3:18以下、5:38以下、9:41以下

「ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、
「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。
彼らは食事の時に手を洗っていません」。
イエスは答えて言われた、
「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。
神は言われた、
『父と母とを敬え』、
また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
それだのに、あなたがたは
『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、 父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。
こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。
偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
『この民は、口さきではわたしを敬うが、 その心はわたしから遠く離れている。
人間のいましめを教として教え、 無意味にわたしを拝んでいる』」。」(マタイによる福音書 15:1-9)

「「時は満ちた、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信ぜよ」。」(マルコによる福音書 1:15)

「あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。」(マルコによる福音書 7:8)

「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。」(マルコによる福音書 10:45)

「だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。
先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから。
それゆえに、『神の知恵』も言っている、『わたしは預言者と使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。
それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。
そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう。
あなたがた律法学者は、わざわいである。知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」。」(ルカによる福音書 11:48-52)

「欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。
そこで彼らにむかって言われた、
「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。
しかし、神はあなたがたの心をご存じである。
人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。
律法と預言者とはヨハネの時までのものである。
それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。
しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。
すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである。」(ルカによる福音書 16:14-18)

「彼を信じる者は、さばかれない。
信じない者は、すでにさばかれている。
神のひとり子の名を信じることをしないからである。
そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
悪を行っている者はみな光を憎む。
そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
しかし、真理を行っている者は光に来る。
その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。」(ヨハネによる福音書 3:18-21)

「また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。
わたしは人からの誉を受けることはしない。
しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。
わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。
もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。
互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。
わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。
あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。
もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。
モーセは、わたしについて書いたのである。
しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。」(ヨハネによる福音書 5:38-47)

「イエスは彼らに言われた、
「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。
しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
よくよくあなたがたに言っておく。
羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。
門からはいる者は、羊の羊飼である。
門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。
そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。
自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。
羊はその声を知っているので、彼について行くのである。
ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。
その人の声を知らないからである」。
イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。
そこで、イエスはまた言われた、
「よくよくあなたがたに言っておく。
わたしは羊の門である。
わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。
羊は彼らに聞き従わなかった。
わたしは門である。
わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。
わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
わたしはよい羊飼である。
よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。
そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。
そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。
わたしは彼らをも導かねばならない。
彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。
そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。
命を捨てるのは、それを再び得るためである。
だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。
わたしが、自分からそれを捨てるのである。
わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。」(ヨハネによる福音書9:41-10:18)

自己が依存している者から与えられる審きほど、その依存者に苦悩を与えるものはありません。

しかもその被審判者の本質は、その審判をいかに受けとるかにかかっています。

選民はこれを下記哀歌のように
◉「自己の罪の当然の帰結」として受けとりました。

「主は正しい、わたしは、み言葉にそむいた」(哀歌1:18)、
「人は自分の罪の罰せられるのを、つぶやくことが出来ようか。
われわれは、自分の行いを調べ、かつ省みて、主に帰ろう」(哀歌3:39-40)

とは、バビロン捕囚が選民に正しく受けとられた時語り出された認罪の告白です。

◉「誇り」は人にあたかも自らが
◉「神であるかのような」錯覚を与えます。

◉しかし神はそこからは姿を消し給うのです。

神は反対に、悲歎と絶望のどん底において人と出会い給います。

バビロン捕囚を通して選民は、

「わが栄えはうせ去り、わたしが主に望むところのものもうせ去った」(哀歌3:18)

と告白するまでにへりくだらせた時、

「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。
これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」(哀歌3:22-33)

という恵みを仰がせられたのです。

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