37-2「どうしたら正しく理解することができるか?」60

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(2)神と人との対話

⑵「人から神へ」

「神から人に」に対して挑まれた「対論」は、中期の預言者では、 「人から神に」対する対論になっています。

「主(神)よ。
私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。
私が『暴虐』とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。
なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。
暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。」(ハバクク1:2ー4)

とは、「人から神に」する対論の預言者ハバククによって挑まれた言葉です。

人間の歴史を貫いているのは、神が正義の味方ならば、何故このような時に、「神は沈黙したもうのか」という痛切な叫びです。

詩篇にも、「主よ、何故、何時まで」という叫びの詩があふれていました。

略奪と暴虐・論争と闘争」のさなかにおかれた被圧迫者としては、かつて、エジプトの地で苦役の下にうめき叫ぶ民の叫び声を聞かれた主を知っているだけに、「何故なのか?」という問いは切実です(出エジプト記2:23-3:7、詩篇106:44-46等)。

【参考】出エジプト記 2:23-3:7-12、詩篇106:44-46

「多くの日を経て、エジプトの王は死んだ。
イスラエルの人々は、その苦役の務のゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。
神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、 神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた。
「主はまた言われた、
『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。
わたしは彼らの苦しみを知っている。
わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。
いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。
わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。
さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう』。
モーセは神に言った、
『わたしは、いったい何者でしょう。
わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか』。
神は言われた、
『わたしは必ずあなたと共にいる。
これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。
あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。」

「それにもかかわらず、主は彼らの叫びを聞かれたとき、 その悩みをかえりみ、 その契約を彼らのために思い出し、 そのいつくしみの豊かなるにより、 みこころを変えられ、 彼らをとりこにした者どもによって、 あわれまれるようにされた。」(詩篇 106:44-46)

「わが神、主、わが聖者よ。
あなたは永遠からいますかたではありませんか。ーー
あなたは目が清く、悪を見られない者、また不義を見られない者であるのに、何ゆえ不真実な者に目をとめていられるのですか
悪しき者が自分よりも正しい者を、のみ食らうのに、何ゆえ黙っていられるのですか」(ハバクク1:12以下)

とは、文字どおり、現代世界の底辺からの叫びです。

旧約聖書の神は、圧倒的に人に臨む神で、
◉人はこれに対してただ平伏するだけ、と考えている人々にとっては、実にこの言葉は一大驚異でしょう。

しかもこの預言者は、神に「食い下がって」、どこまでもその「対論」を続け、神のこれに対する答えを聞こうとしています。

「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主(神)が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。」(ハバクク2:1)

とは、彼のこの頑強なる態度でした。

ハバクク書の中心的意義を持ち、また聖書において最も重要な位置を持つ、
◉ 「正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4)

という言葉は、預言者ハバククが、執拗に神への「対論」を仕掛けた結果として、神から与えられたものでした。

ところで、

「悪しき者が自分よりも正しい者を、のみ食らうのに、何ゆえ黙っていられるのですか」

と、神の沈黙について不条理を叫びつづける旧約聖書のハバクク書をはじめとして、聖書中には、「主よ何時まで」「主よ、何故」という被圧迫者の深淵からの叫びが反復されていますが、これは新約聖書の黙示録にいたってようやく、自らを隠しつつ歴史を支配する神を、遂に、

「また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、
『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。
もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。
先のものが、すでに過ぎ去ったからである』。」(ヨハネの黙示録 21:3-4)

◉「自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐい」去り給う、究極的審判者として仰がしめます。

人と人との出会いでも、まず出会いは「対話」で、「対話」が進むと必然的に「対論」になり、「対決」になります。

旧約聖書の、末期の預言書では、この「神から人へ」、「人から神へ」の対論が発展して、「神から人へ、人から神へ」の「厳しい対論」になっています。

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