37-11「どうしたら正しく理解することができるか?」69

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(11)神と人との対話

(11)イエスと論敵との「対話」

◉特権意識からの180度の方向転換。

この「対論」は、
◉ 「天的権能者イエス」と、
◉「偽装的権威者・宗教指導者」たちとの「対論」で、
◉「特権意識からの方向転換としての悔改め」なしの信仰は、空理空論であることの指摘です。

宗教指導者、信者の「特権意識」は、いまも昔も同じでしょう。

特に、「神(イエス)の選び」が、根底にある「聖書の民」(ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒)の場合、ひどいようです。

福音書で、イエスが「対論」を避けた形跡は、一つも見つかりません。

かえってイエスは街で、会堂で、好んで「対論」し、論敵に対して「対論」していました。

イエスの「対論」の特長は、対論の結果、相手に勝つということではなく、 必ずより
◉高い教えに至っていることです。

たとえばパリサイ人に対する、
あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。
彼はだれの子ですか。
というイエスの問いに対して、彼らが「ダビデの子」と答えた時のイエスの説明もこれです。

「パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。
『あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。
彼はだれの子ですか。』
彼らはイエスに言った。
『ダビデの子です。』
イエスは彼らに言われた。
『それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、
《主は私の主に言われた。
「わたしがあなたの敵を
あなたの足の下に従わせるまでは、
わたしの右の座に着いていなさい。」》
と言っているのですか。
ダビデがキリストを「主」と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。』
それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。
また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。」(マタイ22:41ー46)

イエスは、詩篇110:1を引用して、
ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。
と教えています。

この答えなどは、実に論敵を驚かせ、彼らに一言の反論の余地を与えません。

これらの「対論」に表われているイエスの態度は、けっして行ないすました人の姿でもなく、また独善的に思い上った宗教家の態度でもありません。

どこまでも自ら進んで、「対論」することで、
◉「神の国」を明らかにしようとする真摯な姿です。

福音書から使徒に入ると、「対論」が特殊な地位と意義とを持っていることが分かります。

◉「証言的対論」です。

最初の殉教者・ステパノの記事では、ステパノが多くの人々と「論じた」ことが分かります。

「ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。
しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。」(使徒6:9ー10)

◉「知恵と御霊によって語っていた」とは、「証言者」の「対論」のことです。

「御霊」は、「イエスはキリストである」と「証言させる力」だからです。

ステパノの証言とは、「対論」の形式で語られたものでした。

しかも、生命をかけての対論だったのです(使徒7章)。

このステパノの
◉「証言的対論」によって回心したパウロは、ダマスコの諸会堂で「証言的対論」をしています。

「しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。」(使徒9:22)

とは、「証言的対論」が強力だったことを示すために書かれた言葉です。

パウロのこの「対論」の態度は、伝道旅行でも続けられました。

パウロの第二伝道旅行で、テサロニケに行き、そこの会堂でキリストについて語り、

「パウロはいつもしているように、会堂に入って行って、三つの安息日にわたり、 聖書に基づいて彼らと論じた。」

と書かれています(使徒17:2)。

この「対論」で人々の目が開かれ、真剣な聖書研究が起こりました。

たとえば、ペレヤでは、人々は、
ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒17:11参照①)
と記載されています。

このことはことにアテネでも顕著に現われました。

パウロは「会堂で」「市場で」、日々論じたのです(使徒17:17)。

パウロの第三伝道旅行の記録でもこの「対論」が見い出されます。

パウロはコリントに行き伝道しましたが、そこでも彼は「毎日ツラノの講堂で論じた」(使徒19:9)のです。

これらの記録は、原始教会の「伝道の形式」が、二つあったことを示しています。

一つは「説教」という形式で、たとえば使徒13:16以下や使徒17:22以下などがそれです。

もう一つは、この「対論」の形式が採られていたのです。

福音書から使徒に至って、「対論」が、
◉「伝道」と「証言」との重要な形式になっていたことが分かります。

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信仰雑話>37-11「どうしたら正しく理解することができるか?」69、次は37-12「どうしたら正しく理解することができるか?」70
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