37-10「どうしたら正しく理解することができるか?」68

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(68)神と人との対話

⑽イエスと論敵との「対話」

◉「安息日」にイエスが病人を癒す奇跡を行ったことに対する論難。

これも悪意からではありませんが、 「伝統的立場」だけに立っているので、イエスの行為が理解できず、イエスを
◉「父祖の伝統の破壊者」として論難した場合のです。

「イエスはまた会堂に入られた。
そこに片手のなえた人がいた。
彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。
イエスを訴えるためであった。
イエスは手のなえたその人に、
『立って真ん中に出なさい』
と言われた。
それから彼らに、
『安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。
いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか』
と言われた。
彼らは黙っていた。
イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、
『手を伸ばしなさい』
と言われた。
彼は手を伸ばした。
するとその手が元どおりになった。
そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。」(マルコ3:1以下と併行節)

下記のように、申命記5:14には、
◉「安息日」は「他者のため」という本質が書かれています。

イエスは、この「本質」で論難に答えたのです。

「しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。
あなたはどんな仕事もしてはならない。
―― あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も――そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。」(申命記5:14)

◉イエスを「悪霊」とする論難。

イエスの行為が人々のためになるのに、論敵が「悪霊によるもの」として「論難」した場合です。

マルコ3:22ー30以下と併行節がそれです。

「また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、
『彼(イエス)は、ベルゼブルに取りつかれている』
と言い、
『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ』
とも言った。
そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。
『サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。
もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。
また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。
サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。
確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。
そのあとでその家を略奪できるのです。
まことに、あなたがたに告げます。
人はその犯すどんな罪も赦していただけます。
また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。』
このように言われたのは、彼らが、
『イエスは、汚れた霊につかれている』
と言っていたからである。」

「聖霊をけがす者」とは、
①病を癒し、死人を生き返らせ、わずかなパンと、わずかな魚で、大群衆を満腹させるというイエスの神的権威を「認めながら、なお否認しつづけた」、しぶとい「我執」のことです。

②「眞実を認めつつも、なお自己の面子のために、それを認めようとしない」陰湿の極みとしてのドス黒さのことです。

③「選民の特権意識」です。
「特権」と「責任」は、一体のものです。
「神に選ばれた」という特権意識だけで、それに伴う「責任」を果たさない者たちへの糾弾の言葉です。

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信仰雑話>37-10「どうしたら正しく理解することができるか?」68、次は37-11「どうしたら正しく理解することができるか?」69
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