37-1「どうしたら正しく理解することができるか?」59

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

⑴「神と人との対話」

夏目漱石は、聖書に親しんだ人でしたが、「キリスト教徒の臭いが嫌いだ」と言ったそうです。

「独り言の世界」に閉じこもる「独善」が嫌だったのでしょう。

キリスト者が「聞かなかった」り、 「対話」をしないのには理由があります。

「ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。」(Ⅱテモテ2:14)

「愚かで、無知な思弁を避けなさい。
それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです。
主のしもべが争ってはいけません。」(Ⅱテモテ2:23ー24)

「しかし、愚かな議論、系図、口論、律法についての論争などを避けなさい。それらは無益で、むだなものです。」(テトス3:9)

など、 「対話」「対論」「対決」というようなことを、 「悪徳」であるかのように考えさせる言葉が聖書にあるからです。

ところがこの聖書の警告の言葉は、 「感情的論争」に対するもので、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」としての対話や、 「正しい対話」に対するものではありません。

聖書中にあるのは、 「対話の生命(いのち)」であって、 「教理」でもなければ「神学」でもありません。

旧約聖書を読めば、 「神と人との対話」が充満していますし、新約聖書の福音書では、 「人と人(神が人となって来たのでイエスは「人」)」との対話ですし、福音書以降の諸書は、 「書簡」という形式での対話です。

「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主(神)は仰せられる
『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」(イザヤ1:18)

聖書の最初の書物、創世記で「宇宙万物の創造」「アダムとエバの楽園追放」「ノアの洪水」「バベルの塔の破壊」と、「神の圧倒的な威力」が書かれています。

さらに読み進むと、突然、アブラハムという男が、その圧倒的な威力を持つ神に対して挑戦的な「対論」を仕掛けていることに驚かされます。

「(神が)正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなた(神)がなさるはずがありません。とてもありえないことです。
全世界をさばくお方(神)は、公義を行うべきではありませんか。」(創世記18:25)

という強い言葉がそれです。

アブラハムは、
「私はちりや灰にすぎませんが、」
とか、
「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。」
と、神に畏れを感じながらも対論の言葉を続けています。

聖書の神、ことに
◉旧約聖書の神が絶対神であり、超越神であって、
◉脅威の対象であることを前提する人にとっては、
◉このアブラハムの挑戦的、抗弁的な対論は驚きです。

このアブラハムの抗弁を頭に置いて預言書を見ると、この「対論」がきわめて重要な位置を持っていることを発見します。

預言者イザヤはまず、
「 『さあ、来たれ。論じ合おう』
と主(神)は仰せられる。
『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。
たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」(イザヤ1:18)
と、その民(神の選びの民・イスラエル)に対して「対論」を挑む、神の言葉を記しています。

同じくミカは、
わたし(神)は言った
聞け。
ヤコブのかしらたち、イスラエルの家の首領たち。
あなたがたは公義を知っているはずではないか。」(ミカ3:1)
と、民の指導者に対して「対論」を挑み、さらにその「対論」を発展させて、
「さあ、主の言われることを聞け。
立ち上がって、山々に訴え、丘々にあなたの声を聞かせよ。
山々よ。
聞け。
主の訴えを。
地の変わることのない基よ。
主はその民を訴え、 イスラエルと討論される。
わたしの民よ。
わたしはあなたに何をしたか。
どのようにしてあなたを煩わせたか。
わたしに答えよ。」(ミカ6:1ー3)

と、その民との「対論」を求めています。

このように創世記や初期の預言書では、 「神から人に」対する「対論」が多く記されています。 

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