36-2「どうしたら正しく理解することができるか?」53

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🔳「どうしたら正しく理解することができるか?」(55)

(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(53)旧約聖書第一区分

⑴神と人との直結的な「接合点」を絶対否定ーー選民育成時代

旧約聖書第一区分の最初の時代は、⚫︎「宇宙の創造」⚫︎「原人の背神」⚫︎「宇宙のカオス化」と選民教育による宇宙改造の始源を、⚫︎「モーセの死」に至るまで記述しています(創世記~申命記)。

この第一区分は、他の時代との関係でみると、あきらかに、
◉「宇宙改造」の手段としてのイスラエルの選びが、イスラエルの価値によらない
◉「無条件的」な選びであることと、その選びを貫徹するための選民の
◉「教育」を強調する点で、
◉「賜物」を、したがって
◉「他力」面を、その特色とする時代です。

しかし、それにもかかわらず、後述するように、そこには、「選び主」と「選ばれた者」との
◉「直結の否定」が優位になっています。

選民教育を語るには、まず選民の祖とされるアブラハムから始められなければなりません。

アブラハムは、ローマ人への手紙にも明示されているように(ロマ書4章以下)、彼は
◉万民の父であって、イスラエルのみの祖として救拯史の中に意味づけられているのではないからです。

【参考】ロマ書4章

「それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。
しかし、神のみまえでは、できない。
なぜなら、聖書はなんと言っているか、
「アブラハムは神を信じた。
それによって、彼は義と認められた」
とある。
いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、
「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。
罪を主に認められない人は、さいわいである」。
さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。
それとも、無割礼の者にも及ぶのか。
わたしたちは言う、
「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。
それでは、どういう場合にそう認められたのか。
割礼を受けてからか、それとも受ける前か。
割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。
そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、 かつ、割礼の者の父となるためなのである。
割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。
なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。
もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。
いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。
このようなわけで、すべては信仰によるのである。
それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。
アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、
「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。
彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。
彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。
そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。
すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。
彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。
だから、彼は義と認められたのである。
しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、 わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。
主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」(ローマ人への手紙 4:1-25)

アブラハムは、初めから理想的な信仰の持ち主だったのではありません。

ただ彼は、神に対して不真実でありつづけながら、
◉神の真実に向けて教育されたということのほうに、旧約聖書の記述の力点がおかれています。

否、あくまでも「選び主」と「選ばれた者」という、実存関係の中で、「選び主」の真実に対する
◉「絶対信頼」にまで訓練されたその過程に重点がおかれています。

アブラハム(改名前はアブラム)は、そのような者として「宇宙改造」のプログラムの、「教育的改造」の始源に立たされています。

ノアによる試み(「ノアの洪水」)が、「環境的改造」としては不充分であり、不徹底だったことを証明するかのような創世記第11章までの記述につづいて、アブラハムの「選び主」による「召し出し」の言葉が次のようにしるされています。

「時に主はアブラムに言われた、
『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。(国土獲得の約束)
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。(子孫繁栄の約束)
あなたは祝福の基となるであろう。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからは、あなたによって祝福される』。(万民福祉の約束)
アブラムは主がいわれたようにいで立った。
ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった」
(創世記12:1-4)。

そこにはすでに、「選び主」の究極的目標は、
◉「地のすべてのやから」すなわち「宇宙的改造」におかれています。

端的にいうと、アブラハムの選びは、
◉宇宙の創造主である者の神中心的平和共存(神の国)の実現に向けての「実験的民族」のそれです。

この時の主の約束の言葉は、アブラハムにとって、全くの未知数でしかありません。

アブラハムの側には、この主の
◉約束を確証しうるものは何一つなかったのです。

したがって、この主の言葉に従って出る決断は、彼を支えている人間的条件への依存を断ち切ることです。

それは、アブラハムを支えているあらゆる
◉人間条件「のゆえに」という自己信頼の図式から、約束の言葉に対しては
◉否定的現実である「にもかかわらず」、神中心的な判断へ、という主客逆転を迫る出来事でした。

それゆえ、その召命に対して服従した彼の行為を、新約聖書のヘブル人への手紙は、
「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8)
と解説しています。

こうして始められたアブラハムの新しい出発も、長くはつづきませんでした。

彼もそのおかれていた
◉現実の条件「のゆえに」という人間中心的判断に押し流されがちでした。

その失敗の一つは、約束の実現のためには欠くことのできない条件、すなわち世継が与えられなかったため、待ち切れず、ついに、その僕婢に生ませた子を相続人に仕立てた、というエピソードです(創世記15章)。

【参考】創世記15章

「これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、
「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。
アブラムは言った、
「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。
アブラムはまた言った、
「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。
この時、主の言葉が彼に臨んだ、
「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。
あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。
そして主は彼を外に連れ出して言われた、
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。
アブラムは主を信じた。
主はこれを彼の義と認められた。
また主は彼に言われた、
「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主です」。
彼は言った、「主なる神よ、わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか」。
主は彼に言われた、
「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばとと、家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい」。
彼はこれらをみな連れてきて、二つに裂き、裂いたものを互に向かい合わせて置いた。
ただし、鳥は裂かなかった。
荒い鳥が死体の上に降りるとき、アブラムはこれを追い払った。
日の入るころ、アブラムが深い眠りにおそわれた時、大きな恐ろしい暗やみが彼に臨んだ。
時に主はアブラムに言われた、
「あなたはよく心にとめておきなさい。
あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。
しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。
その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。
あなたは安らかに先祖のもとに行きます。
そして高齢に達して葬られるでしょう。
四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。
アモリびとの悪がまだ満ちないからです」。
やがて日は入り、暗やみになった時、煙の立つかまど、炎の出るたいまつが、裂いたものの間を通り過ぎた。
その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、
「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。 すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、 ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、 アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える」。」(創世記 15:1-21)

上記【参考】のように、その不信仰の証拠でしかないアブラハムの小細工は主の前にさばかれなければなりませんでした。

「選び主」の真実に対する、
◉絶対信頼の何であるかを学びとるために登場させられているアブラハムは、こうして、さまざまの信仰的訓練の試行錯誤ののち、最大の試練が与えられました。

それが下記の創世記22章の記事です。

それはアブラハムの晩年にようやく与えられた最愛の独り子イサクを、燔祭として主に献げよ、との命令でした。

この神の命令は、アブラハムがーー独り子によってのみ神の約束は可能とされるというーー
◉人間的条件「のゆえに」を、彼の最後の拠りどころとして固守しつづけるか、あるいは、神の約束の言葉が実現するのは、人間的条件のゆえではなく、
◉それ「にもかかわらず」であるという絶対信頼にすべてを賭けるか、のテストを意味しました。

それはそのまま、神を神とするか、それとも自らの判断を、神のそれより優位におくか、自らを神の上におくか否か、という絶対絶命的ともいうべき主客転換の革命的出来事です。

【参考】創世記22章

「これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、
「アブラハムよ」。
彼は言った、「ここにおります」。
神は言われた、
「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。
アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。
三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。
そこでアブラハムは若者たちに言った、
「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。
わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。
アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。
やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。
彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。
イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。
アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。
こうしてふたりは一緒に行った。
彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、 主の使が天から彼を呼んで言った、
「アブラハムよ、アブラハムよ」。
彼は答えた、「はい、ここにおります」。
み使が言った、
「わらべを手にかけてはならない。
また何も彼にしてはならない。
あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。
この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。
アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。
それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。
これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。
主の使は再び天からアブラハムを呼んで、 言った、
「主は言われた、
『わたしは自分をさして誓う。
あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、 わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。
あなたの子孫は敵の門を打ち取り、 また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。
あなたがわたしの言葉に従ったからである』」。」(創世記 22:1-18)

信仰の訓練の後のこの最大のテストに合格したアブラハムの絶対信頼こそ、◉神を神とし、自らを神の主人、神の審判者として、神の上に立つことを拒む、被造者的「畏れ」に徹した在り方であり、決断です。

それゆえ、ローマ人への手紙で使徒パウロは、この記事に拠って、

「アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、
『わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした』
と書いてあるとおりである。
彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。
彼は望みえないのに、なおも望みつつ信じた。
そのために、
『あなたの子孫はこうなるであろう』
といわれているとおり、多くの国民の父となったのである。
すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラ(妻)の胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。
彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。
だから、彼は義と認められたのである」(ロマ書4:16以下)

と、信仰義認の基本的論理を、そこに見いださせられています。

以上は、第一区分の強調する
◉「直結の否定」が、信仰の構造の要請としてあとづけられる一例を示すものです。

それのみではなく、「選び主」と「選ばれた者」との間の「直結の否定」は、選民育成時代においては、「選び主」の「聖なること」の体認の要請という形で強調されています。

一般には、
◉「真・善・美」が文化的価値観の類型とされていますが、聖書は、これらにまさって、
◉「聖」を強調します。

「選び主」は、選民史を通して、自らを「聖なる者」と宣言し、選民イスラエルは、その現実の一切の汚れと、不完全にもかかわらず、「聖なる民」とよばれるべきであることが命じられています(出エジプト19:6)。

【参考】出エジプト19:6

「あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。
これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。」(出エジプト記 19:6)

「わたし(選び主)は、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現わすであろう」(レビ記10:3)

といわれ、選民としては、

「聖なるものと俗なるもの、汚れたるものと清いものとの区別」の識別感が要求されていました(レビ記10:8以下)。

要するに、

わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である

とは、レビ記全体を貫くキー・トーン(基調)です(レビ記11:44、19:2、20:7-8、20:26、22:9、22:32、27:9、27:28等)。

【参考】レビ記のキー・トーン

「わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。
わたしは聖なる者である。
地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。」(レビ記 11:44)

「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、
『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」(レビ記 19:2)

「ゆえにあなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。
わたしはあなたがたの神、主である。
あなたがたはわたしの定めを守って、これを行わなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。」(レビ記 20:7-8)

「あなたがたはわたしに対して聖なる者でなければならない。
主なるわたしは聖なる者で、あなたがたをわたしのものにしようと、他の民から区別したからである。」(レビ記 20:26)

「それゆえに、彼らはわたしの言いつけを守らなければならない。
彼らがこれを汚し、これがために、罪を獲て死ぬことのないためである。
わたしは彼らを聖別する主である。」(レビ記 22:9)

「あなたがたはわたしの聖なる名を汚してはならない。
かえって、わたしはイスラエルの人々のうちに聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。」(レビ記 22:32)

「主に供え物とすることができる家畜で、人が主にささげるものはすべて聖なる物となる。」(レビ記 27:9)

「ただし、人が自分の持っているもののうちから奉納物として主にささげたものは、人であっても、家畜であっても、また相続の畑であっても、いっさいこれを売ってはならない。
またあがなってはならない。奉納物はすべて主に属するいと聖なる物である。」(レビ記 27:28)

レビ記は、罪と汚れをまぬがれないイスラエルを直視しつつ、なお、選民としては、
◉神の聖に対する鋭敏な感受性と峻別性とを、その生活体系の末端まで浸透させるよう要請しています。

しかも、それは要請にとどまらず、むしろ、絶対に何ものにも依存しない、聖なる主が、汚れたイスラエルの選び主となったということのはらむ絶大な「矛盾」に対する畏れと驚きとを訴えつづけるのがレビ記です。

選びが、神の選びであるかぎり、それは、「聖なるものと俗なるもの」との、絶対矛盾的関係であることをやめません。

「試みにあなた(イスラエル)の前に過ぎ去った日について問え。
神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの端から、かの端までに、かつてこのように大いなる事があったであろうか。
火の中から語られる神の声をあなたが聞いたように、聞いてなお生きていた民がかつてあったであろうか。ーー
あるいはまた、あなたがたの神、主がエジプトにおいて、あなたがたの目の前に、あなたがたのためにもろもろの事をなされたように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、強い手と、伸ばした腕と、大いなる恐るべき事とをもって臨み、一つの国民を他の国民のうちから引き出して、自分の民とされた神が、かつてあったであろうか。
あなたにこの事を示したのは、主こそ神であって、ほかに神のないことを知らせるためであった」(申命記4:32以下)

とは、
◉絶対おこりえない矛盾的出来事としてしか理解されえない選びの秘義に注目させる表現の一例にすぎません。

絶対に聖なる主に選ばれた、汚れた民としてのイスラエルこそ、聖と汚(聖と俗)の「切点」に立たされた者であり、イスラエルは、その選び主の「聖なること」を、自己を超えて、その一切の汚れ「にもかかわらず」さし示させられる者です。

その上、第一区分は、この点をきわめて逆説的な効果をもって語っていることに注目させられます。

周知のように、モーセは、選民育成時代の比類ない指導者であり、彼については、

「イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起こらなかった。
モーセは主が顔を合わせて知られた者であった。
主はエジプトの地で彼をパロとそのすべての家来およびその全地につかわして、もろもろのしるしと不思議を行なわせられた。
モーセはイスラエルのすべての人の前で大いなる力をあらわし、大いなる恐るべき事をおこなった」(申命記34:10-12)

と、
◉最大の讃辞をもって評価されており、この言葉が第一区分の結語となっています。

ところが、モーセの一見些細な失敗のために、モーセは、民を導いてきながら、その目標である
◉「約束の地」に入る直前に死んだものとされています。

「この日、主はモーセにいわれた。
『あなたはエリコに対するモアブの地にあるアバリム山すなわちネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えて獲させるカナンの地を見渡せ。
あなたは登って行くその山で死に、あなたの民に連なるであろう。
あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に連らなったようになるであろう』」

といわれ、その理由らしく、つづいてこう解説されています。

「これは、あなた(モーセ)がたが、チンの荒野にあるメリバテ・カデシの水のほとりで、イスラエルの人々のうちでわたしにそむき、イスラエルの人々のうちでわたし(主なる神)を聖なるものとして敬わなかったからである。
それであなた(モーセ)はわたし(主なる神)がイスラエルの人々に与える地を、目の前に見るであろう。
しかし、その地に、はいることはできない」(申命記32:48以下)

モーセの失敗として指摘されているのは、あきらかに彼が選び主なる神の「聖なること」をあらわさなかったという一点です。(下記【参考】参照)

その事態は、出エジプト記にさかのぼります(出エジプト記17:1-17)

イスラエルが荒野彷徨中に、水を求めたとき、モーセのとりなしで、モーセがその手の杖で岩を打つよう命じられて水を得ました。

その過去の経験に依存してしまったモーセは、次に民が水を求めたとき、「岩に命じて水を出させなさい」という主の命に傾聴せず、やはり、前回同様、岩を打って水を出させたというのです(民数記20:1-13、27:12以下、申命記6:16以下等、下記【】参照)。

モーセはイスラエルの代表者、指導者として、また比類ない「律法の受領者」として(ヨハネ1:17、出エジプト20:1以下)、選び主と選民との「切点」に立たされた者です。

そのようなかけがえのない境位におかれた者として、モーセは、その人間的偉大さにもかかわらず、その成功を通してではなく、
◉その失敗を通して、「神の聖なること」をさし示す者としてーーすなわち否定媒介としてーークローズアップされています。

神の「聖なること」は、神の言葉への「現在的聴従」の鋭敏性を要求するというべきでしょう。

あきらかに、モーセは、過去的経験に、ひいては、自己に依存し、経験の「慣れ」のとりこでした。

したがって、主の言葉への鋭敏な聴従の姿勢を失っていました。

◉神の聖は、人の慣れを拒絶します。

神の聖なることは、つまり、最大の人物の失敗を通して、さし示されなければならないほど、決定的な事柄である、というのが、聖書の評価なのです。

そして、この独自な評価ゆえに、ひとは、イスラエルの立たされたかけがえのない境位が、実は、
◉「直接性」を否定する「逆対応的」な境位であることを知らされるのです。

つまり、イスラエルが、神と人との「切点」的境位に立たされているということは、神の「聖なること」をさし示すための「否定的媒介」として存在させられている、ということにほかならないのです。

聖が強調されるところには、「慣れ」が、その最も否定的な要因として照らし出されずにはすみません。

信仰的甘えの、イスラエル的選民的固有性が、この「慣れ」にあることを、旧約聖書の第一区分は、強調してやみません。

それが第一区分の独自な課題であるといっても過言ではないでしょう。

【参考】モーセへの断罪

「イスラエルの人々の全会衆は、主の命に従って、シンの荒野を出発し、旅路を重ねて、レピデムに宿営したが、そこには民の飲む水がなかった。
それで、民はモーセと争って言った、
「わたしたちに飲む水をください」。
モーセは彼らに言った、
「あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか」。
民はその所で水にかわき、モーセにつぶやいて言った、
「あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか」。
このときモーセは主に叫んで言った、
「わたしはこの民をどうすればよいのでしょう。
彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」。
主はモーセに言われた、
「あなたは民の前に進み行き、イスラエルの長老たちを伴い、あなたがナイル川を打った、つえを手に取って行きなさい。
見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。
あなたは岩を打ちなさい。
水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」。
モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行った。
そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。
これはイスラエルの人々が争ったゆえ、また彼らが「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試みたからである。 」 (出エジプト記 17:1-7)

「イスラエルの人々の全会衆は正月になってチンの荒野にはいった。
そして民はカデシにとどまったが、ミリアムがそこで死んだので、彼女をそこに葬った。
そのころ会衆は水が得られなかったため、相集まってモーセとアロンに迫った。
すなわち民はモーセと争って言った、
「さきにわれわれの兄弟たちが主の前に死んだ時、われわれも死んでいたらよかったものを。
なぜ、あなたがたは主の会衆をこの荒野に導いて、われわれと、われわれの家畜とを、ここで死なせようとするのですか。
どうしてあなたがたはわれわれをエジプトから上らせて、この悪い所に導き入れたのですか。
ここには種をまく所もなく、いちじくもなく、ぶどうもなく、ざくろもなく、また飲む水もありません」。
そこでモーセとアロンは会衆の前を去り、会見の幕屋の入口へ行ってひれ伏した。
すると主の栄光が彼らに現れ、 主はモーセに言われた、
「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。
こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。
モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。
モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、
「そむく人たちよ、聞きなさい。
われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。
モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。
そのとき主はモーセとアロンに言われた、
「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。
これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。」(民数記 20:1-13)

「主はモーセに言われた、
「このアバリムの山に登って、わたしがイスラエルの人々に与える地を見なさい。
あなたはそれを見てから、兄弟アロンのようにその民に加えられるであろう。
これは会衆がチンの荒野で逆らい争った時、あなたがたはわたしの命にそむき、あの水のかたわらで彼らの目の前にわたしの聖なることを現さなかったからである」。
これはチンの荒野にあるカデシのメリバの水である。
(民数記 27:12-14)

「あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。
あなたがたの神、主があなたがたに命じられた命令と、あかしと、定めとを、努めて守らなければならない。
あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならない。
そうすれば、あなたはさいわいを得、かつ主があなたの先祖に誓われた、あの良い地にはいって、自分のものとすることができるであろう。
また主が仰せられたように、あなたの敵を皆あなたの前から追い払われるであろう。
後の日となって、あなたの子があなたに問うて言うであろう、『われわれの神、主があなたがたに命じられたこのあかしと、定めと、おきてとは、なんのためですか』。
その時あなたはその子に言わなければならない。
『われわれはエジプトでパロの奴隷であったが、主は強い手をもって、われわれをエジプトから導き出された。
主はわれわれの目の前で、大きな恐ろしいしるしと不思議とをエジプトと、パロとその全家とに示され、 われわれをそこから導き出し、かつてわれわれの先祖に誓われた地にはいらせ、それをわれわれに賜わった。
そして主はこのすべての定めを行えと、われわれに命じられた。
これはわれわれの神、主を恐れて、われわれが、つねにさいわいであり、また今日のように、主がわれわれを守って命を保たせるためである。
もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう』。」(申命記 6:16-25)

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