37-3「どうしたら正しく理解することができるか?」61

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(3)神と人との対話

⑶「神から人へ、人から神へ」

その代表的なのが、預言者マラキの預言集です。

神は民に挑戦し、民は神に抗弁する、という明確な
◉「対論文学の形式」が採られています。

「『わたし(神)はあなたがた(選民)を愛している』
と主は仰せられる。
あなたがたは言う。
『どのように、あなた(神)が私たち(選民)を愛されたのですか』」(マラキ1:2)。

「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。
もし、わたし(神)が父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。
ーー万軍の主は、あなたがたに仰せられるーー
わたしの名をさげすむ祭司たち。
あなたがたは言う。
『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか』」(マラキ1:6)

「日の出る所から、その沈む所まで、わたし(神)の名は諸国の民の間であがめられ、すべての場所で、わたしの名のために、きよいささげ物がささげられ、香がたかれる。
わたしの名が諸国の民の間であがめられているからだ。
――万軍の主は仰せられる――
しかし、あなたがた(選民)は、
『主の食卓は汚れている。
その果実も食物もさげすまれている』
と言って、祭壇を冒瀆している。」(マラキ1:11ー12)

「あなたがた(選民)はもう一つのことをしている。
あなたがたは、涙と、悲鳴と、嘆きで主の祭壇をおおっている。
主がもうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取らないからだ。
『なぜなのか』
とあなたがたは言う。
それは主が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。
彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。」(マラキ2:13ー14)

「あなたがた(選民)は、あなたがたのことばで主を煩わした。
しかし、あなたがたは言う。
『どのようにして、私たちは煩わしたのか。』
『悪を行う者もみな主の心にかなっている。
主は彼らを喜ばれる。
さばきの神はどこにいるのか』
とあなたがたは言っているのだ。
『見よ。
わたしは、わたしの使者を遣わす。
彼はわたしの前に道を整える。
あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。
あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている』
と万軍の主は仰せられる。」(マラキ2:17ー3:1)

このように、この「対論」は始められ、くり返しくり返し行われています。

◉「あなたはどんなふうに、われわれ(選民)を愛されたか」、
◉「われわれはどんなふうにあなたの名を侮ったか」、
◉「われわれはどんなふうに、それを汚したか」、
◉「われわれはどんなふうに、彼を煩わしたか」
というような、その「選び主」に対する「選民の反問」の反復で、「負債感」を失った選民イスラエルの姿が鋭く指摘されています(マラキ1:2、1:6、2:17等)。

負債感」を失った姿とは、とりも直さず、「恵みに慣れた姿」であり、「恵みに対する不感症」です。

この致命的不感症からイスラエルを救うものはホセア書が示した、「選び主」の前に、自己を、「姦淫に慣れた女ゴメル」として再確認することだけです。

そのことによってのみ、選民は、無条件に赦される者にふさわしい、「負債感」に保たせられるからです。

預言書の「対話」から「対論」へを去って、知者的書物に進むと、さらにこの「対論」が中心となっています。

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信仰雑話>37-3「どうしたら正しく理解することができるか?」61、次は37-4「どうしたら正しく理解することができるか?」62
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