37-8「どうしたら正しく理解することができるか?」66

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(8)神と人との対話

⑻イエスと論敵との「対話」

新約聖書の「人と人」との「対論」で、まず目をひかれるのは福音書の、イエスとその
◉論敵との「対論」です。

福音書はイエスの伝記をそれぞれの立場から書いていますが、イエスの公生涯の記録は、
◉「民衆に対する説教」と、
◉「弟子たちに対する教訓」と、
◉「サドカイ人、パリサイ人」、
◉「学者・教法師」
との対論とから成っています。

これに、
◉奇跡その他の行為をつづりあわせた記録が、福音書の「骨格」です。

福音書の著者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)が、かなりの力を費やしているのは、
◉ イエスの論敵との「対論」の記事で、すべての福音書に共通の特徴です。

イエスのこの「対論」の記事で、
◉「論敵がイエスに対しての場合」と、
◉「イエスが論敵に対しての場合」とがあります。

◉論敵がイエスに対しての第一のものは、
◉論敵が悪意でイエスを陥れようとして「対論」を仕向けた場合です。

「カイザルに対して税金を支払うことの可否」(マルコ12:14以下と併行節)、

彼らはイエスのところに来て、言った。
「先生。
私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。
あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。
ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。
納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」
イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。
「なぜ、わたしをためすのか。
デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」
彼らは持って来た。
そこでイエスは彼らに言われた。
「これはだれの肖像ですか。
だれの銘ですか。」
彼らは、
「カイザルのです」
と言った。
するとイエスは言われた。
「カイザルのものはカイザルに返しなさい。
そして神のものは神に返しなさい。」
彼らはイエスに驚嘆した。

「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」帰すべき判断力を失った◉人間の罪に基づく鈍感さに対するイエスの強烈な指摘です。

キリスト者は「神のものとカイザルのもの」との次元的区別の鋭敏性をもつ方々な筈です。

次元的区別をするのには、
◉「聖書自体の独自な前提」「聖書自体の価値判断」に対する鋭い感受性と鋭敏性とが求められます。

剣道の世界に例をとれば、理解の次元は、日常的訓練を意味し、適用の次元は、真剣勝負を意味するといえるかもしれません。

日常の訓練は、真剣勝負のためであり、真剣勝負において、予想されない挑戦に向けての応戦で、ものをいうのは、日頃の訓練だと言えるからです。

聖書各巻に拘束されることの徹底のために、
◉「理解の次元」と「適用の次元」とを峻別するということは、以上のような意味で、断じて、各自の社会的行動の画一化をめざすことではないばかりか、「神のものとカイザルのもの」との次元的区別における鋭敏性をもつちかうものではないかと思います。

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