36-4「どうしたら正しく理解することができるか?」55

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(55)旧約聖書第三区分

⑶「無知の告発」ーー「選民失格時代」

「選び主」に対する背信の結果、
◉亡国(西暦前586年)という破局により、民族的「枠」から外され、
◉異邦権力下に投げ出されたのが、この第三区分です。

聖書の独自な史観によると、この時代の
◉「選民教育」は、その選び主の
◉「沈黙」による逆対応の徹底の時代としてみられています。

それというのは、この時代の特色が、

◉「神は死んだ」と言わせるまでに
◉「自らを隠される神」の時代として描かれているからです。

この時代の神は、先立つ、選民の「育成時代」や「実践時代」のように、親しく導き、はぐくむ神ではなくなっています。

むしろ、それはあえて、自らを隠し、選民の陥りがちな、
◉「直接的一体感」への安住や甘えを断ち切ることにより、選民を
◉「しごく神」です。

この時代の最初におかれた詩篇をはじめとして、反復されているのは、

「わが神、わが神、
なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか」(詩篇22:1)

という悲痛な訴えです。

◉「沈黙する神」こそ、人間にとっては
◉「絶対他者」である神、絶対に人間に対して随時、呼び出して必要に応えてもらえる
◉「作業仮説」とはなりえない神、
◉「人間中心的立場」や、
◉「ヒューマニズム的前提」から求められる◉「問題解決者」として利用されることを、
◉「断乎拒絶」する神です。

他方、「神の沈黙」の時代とは、当然、
◉人の知恵が所を得させられることになります。

知恵は、環境という外的条件を処理するための不可欠な技術だからです。

そしてとりわけ選民としては、その固有性を失うことなく、異邦の人々と接渉し、新しい状況にいかに順応していくかが、この時代の投げかけた最大の課題でした。

知恵の開発は、そのようなわけで、おりしも接触することになった
◉「ギリシャ文化」により、イスラエルの中に本来、潜在していたものが、外との接触によって
◉「触発」されたというべきです。

事実、選民が、その枠を外されて投げ出されたこの時代は、
◉「特殊」と
◉「普遍」のきわどい緊張を体認させられる、という選民教育の課題を選民につきつけました。

そのような状況下にあって、
◉知恵こそ、特殊的なものというより、
◉普遍妥当的なものであり、それゆえにまたそれは、選民をして、他との妥協によってその
◉独自性を失わせるという誘惑に満ちた時代であったと言えます。

質的に異なる価値観をもつ他民族との交渉の場とは、
◉「神は死んだ」地平でのやりとりです。

◉神の指示を待つことなく、そこでは、
◉人が判断を下さなければならないからです。

そこに緊急なのは、神は沈黙して遠ざかってしまった地平で、大海を難破することなく航海するための
◉「舵とりの術」としての生活の知恵です。

この時代に生み出されたイスラエルの知恵文学はきわめて多彩、多次元にわたるものでした。

それは、俗知的な、格言的な処世訓的なものから、哲学的、宗教的なものに及ぶ、きわめて多角的なレパートリーを示しています。

その中の代表的なものの一つである
◉「箴言」の紹介が次のようにのべられています。

「ダビデの子、イスラエルの王ソロモンの箴言。
これは人に知恵と教訓とを知らせ、
悟りの言葉をさとらせ、
賢い行いと、正義と公正と
公平の教訓をうけさせ、
思慮のない者に悟りを与え、
若い者に知識と慎しみを得させるためである。
賢い者はこれを聞いて学に進み、
さとい者は指導を得る。
人はこれによって箴言と、たとえと、
賢い者の言葉と、そのなぞとを悟る」(箴言1:1-6)。

いうまでもなく、この部分までは、全く普遍妥当的なセリフです。

ところが、これにつづいて、選民にして初めて到達しえた知恵のレパートリーを示す言葉がしるされています。

それは、
主を恐れることは知識のはじめである」(箴言1:7)
という深遠な洞察です。

この言葉こそ、選民の知恵の高さ・深さ・広さの独自なレパートリーのあかしであり、その知恵文学のテーマとして、反復力説されている表現です(箴言2:5、3:7、8:10、10:27、14:27、16:3、16:33、19:23、23:17、28:14、29:25等)。

【参考】主を畏(おそ)れる

「あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。」(箴言 2:5)

「自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。」(箴言 3:7)

「あなたがたは銀を受けるよりも、わたしの教を受けよ、精金よりも、むしろ知識を得よ。」(箴言 8:10)

「主を恐れることは人の命の日を多くする、悪しき者の年は縮められる。」(箴言 10:27)

「主を恐れることは命の泉である、人を死のわなからのがれさせる。」(箴言 14:27)

「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」(箴言 16:3)

「人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。」(箴言 16:33)

「主を恐れることは人を命に至らせ、常に飽き足りて、災にあうことはない。」(箴言 19:23)

「心に罪びとをうらやんではならない、ただ、ひねもす主を恐れよ。」(箴言 23:17)

「常に主を恐れる人はさいわいである、心をかたくなにする者は災に陥る。」(箴言 28:14)

「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」(箴言 29:25)

空の空、空の空、いっさいは空である。」で始められる

◉「伝道の書」もまたイスラエル知恵文学の代表的なものの一つですが、この「伝道の書」全体が実は「主を畏れることこそ知識のはじめ」という真理のあかしの書なのです。

しかも、そこには、「時を知る知恵」としての創造主の知恵の讃歌が、異彩を放っています(伝道の書3:1以下)。

「天が下のすべての事には季節があり、
すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た」
といい、その結論ともいうべきものとして、
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。
神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」

という言葉がしるされています。

こうしてみると、人の知恵の高さと深さと広さは、「その時にかなって美しい」神の知恵を悟る度合いに正比例しているといえます。

箴言もこの点を、
「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、
そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」
「人はくじをひく、
しかし事を定めるのは全く主のことである」(箴言16:3、16:33)
という教訓を通して語っています。

しかし、
◉人は「神の時」が待てないのです。

◉「神の時のみが美しい」ことを悟れないで、つねにあせります。

そして小細工をします。

人はあまりに近視眼的で「神の時」の美しさを見る目をもたないのです。

否、もとうとさえしません。

◉神の言葉は、
◉人の言葉とちがって
◉必ず成ります。

しかしその言葉の成るのは、あくまでも、人の欲求を充たすような、自己投映の時においてではなく、
◉「神が善しと視られる時」においてだからです。

そのような意味で、「主を畏れる知恵」を証しさせられるイスラエル的知恵文学の使命は、人知の無限をではなく、むしろ人知の「限界」否その「無知」をあかしすることです。

◉「ヨブ記」もまた知恵文学の一種とみられていますが、ヨブ記は、むしろ、「無知の暴露」のあかしとしてこそ圧巻です。

従来ヨブ記は、苦難、あるいは、神義論をテーマとする書として、世界文学中の一大傑作とよばれています。

あるいは、ヨブ記は、「ご利益宗教の超克」をあかしする堂々たる宣言文書でもあります。

そのような多次元性を認めつつ、人知の無知の根源を暴露するヨブ記をみてみます。

ヨブ記冒頭の2章は、義人ヨブの信仰が、いわゆる
◉「ご利益信仰」、したがって
◉「宗教幻想説」ひいては
◉「宗教願望説」を粉砕するものであることを告げ、第3章以下には、それの深化徹底を期すかのように、
◉「義人の苦難」ひいては
◉「神義論」が展開されています。

【参考】ヨブ記1-2章
「ウヅの地にヨブという名の人があった。
そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。
彼に男の子七人と女の子三人があり、 その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。
そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。
そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。
これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。
ヨブはいつも、このように行った。
ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。
サタンも来てその中にいた。
主は言われた、「あなたはどこから来たか」。
サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。
サタンは主に答えて言った、
「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。
あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。
しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。
彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
主はサタンに言われた、
「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。
ただ彼の身に手をつけてはならない」。
サタンは主の前から出て行った。
ある日ヨブのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいたとき、 使者がヨブのもとに来て言った、
「牛が耕し、ろばがそのかたわらで草を食っていると、 シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。
わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、
「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました。
わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、
「カルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。
わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、
「あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、 荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。
わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、 そして言った、
「わたしは裸で母の胎を出た。
また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな」。
すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。
ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。
サタンもまたその中に来て、主の前に立った。
主はサタンに言われた、
「あなたはどこから来たか」。
サタンは主に答えて言った、
「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
主はサタンに言われた、
「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。
あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。
サタンは主に答えて言った、
「皮には皮をもってします。
人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。
しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。
彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
主はサタンに言われた、
「見よ、彼はあなたの手にある。
ただ彼の命を助けよ」。
サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。
ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。
時にその妻は彼に言った、
「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。
しかしヨブは彼女に言った、
「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。
われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。
すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
時に、ヨブの三人の友がこのすべての災のヨブに臨んだのを聞いて、めいめい自分の所から尋ねて来た。
すなわちテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルである。
彼らはヨブをいたわり、慰めようとして、たがいに約束してきたのである。
彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。
こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。
彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。」(ヨブ記1:1- 2:13)

「神義論」は3章から37章にわたる、ヨブと友人らの対論からなりますが、そこには、
◉神は第三者として登場させられるのみです。

つまり、そこでの神は、義人ヨブを苦難の中に捨ておいて、自らは沈黙を保つ、いわゆる
◉「隠れた神」です。

ところが、終わりに近づく第38章において、はじめてその沈黙を破って、語る神の言葉は、ヨブの
◉「無知」の問責です。

「この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた。
『無知の言葉をもって、
神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
あなたは腰に帯して、男らしくせよ。
わたしはあなたに尋ねる。わたしに答えよ」(ヨブ記38:1-2)。

そのヨブに対する「無知」という弾劾を解明する創造主の言葉が、これにつづきますが、それは、創造主の超絶した「知恵」と、被造者の「無知」の対比を実証しつつ、神義論の中で、いつしか被造者ヨブが、
◉創造主の問責者になり代わっていたことを指摘告発するものです。

ヨブが問責者であるとき、創造主は、「問われる者」であり、ヨブは「問う者」として、「問われる者」を客体化する主人です。

創造主がそこでは
◉「客」とされ、被造者ヨブは
◉「主」となっています。

その「主客倒錯」こそ、ヨブの無知の真相だというのです。

それゆえ、創造主は、自らが「問う者」であって、ヨブこそ「問われる者」にほかならないから、「わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ」と迫ります。

ヨブの主客倒錯が、いつの間にか、
◉「神は義人を苦しめられるはずがない」という、きわめて、
◉自己義認的な前提に安住させていたのです。

だが、その主客倒錯を告発されたとき、ヨブは、その無知を、
「わたしは知ります、
あなたはすべての事をなすことができ、
またいかなるおぼしめしでも、
あなたにできないことはないことを。
『無知をもって神の計りごとをおおう
この者はだれか』。
それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。
『聞け、わたしは語ろう。
わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見いたします。
それでわたしはみずから恨み、
ちり灰の中で悔います」(ヨブ記42:2-6)
と告白させられています。

これまでに、この時代の特色が、「沈黙する神」の時代であること、すなわち、「自らを隠す神」として表わされることをみてきました。

だがいうまでもなく、自らを隠す神はーー沈黙する神としてーーいわゆる「作業仮説」の神として人間に利用される神ではありませんが、しかし、自らを隠す神は、実は
◉「隠れて働く神」です。

そして「隠れて働く神」は、その「時」も「所」も「方法」も、そして「媒介」さえも、これを人間の眼からは隠しておられる、ということです。

神の支配は、ニーチェが主張するように、人間の主体的可能性をうばい去り、これをパペット(あやつり人形)のようにあしらうのではありません。

ニーチェによると、
「すべてを支配する神があるならば、人間はいかなる創造の余地もないのである。
したがって人間が真の創造者であり、生を肯定しうるためには、神は存在してはならないのである。」
これが彼の論法です。

だが、聖書によれば、沈黙される神とは、人間によって利用される神でもなく、したがって、問題解決者として甘えさせる神でもなく、かえって
◉「賭けさせる神」です。

信仰的、主体的冒険を期待する神です。

それを如実に語るのが、この時代の
エステル書であり、
ダニエル書です。

時はペルシャ国の全盛時代、一ユダヤ人の娘エステルが、その美しさのゆえにアハシュエロスと名のる王の宮廷に王妃として召し入れられました。

やがて王の家臣の恨みによって、ユダヤ人抹殺が企てられたとき、王妃の養父モルデカイがエステルに訴えた言葉の中に、自らを隠し、沈黙しつつ、何らの作業仮説なしの信仰的冒険を求める神をかいま見させています。

その時のユダヤ人の救いはエステルの犠牲的決断一つにかかっていたので、

「モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った。
『あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。
あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救いがユダヤ人のために起こるでしょう。
しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。
あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」(エステル4:13以下)。

エステルが立たされていた状況とは、神は死んだといわせるほどに、神は自らを隠しておられます。

神という言葉さえ、この物語の記述には使われていません。

作業仮説なしの神信仰への割引きなしの挑戦です。

◉「このような時のため」にエステルが王宮に迎えいれられたのか、
◉「このような場合」のみが、エステルの献身の汐時なのか、
◉「このような位置は偶然のものなのか、あるいは、神の計画の中の必然を意味するのか」、それは、全く
◉「未知数」なのです。

神がその目的を遂行される「時」も「所」も「方法」も「媒介」も、人間には隠されているから、モルデカイは、ただ、
「あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」
◉「誰も実は知らない」
というのです。

これこそ、ヘブル人への手紙がしるす、「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認する」(ヘブル11:1)信仰です。

信仰とは、神の支配は全く隠されている地平で、あたかも神の支配を顕わに見ているかのごとく「賭ける」決断にほかならないからです。

この点を、さらに烈しく迫るのは、やはり、この時代の
◉ダニエル書です。

亡国の民イスラエルにとって、バビロン王ネブカデネザル王による迫害は、「神の沈黙」のクライマックスとでもいうべき時でした。

王の立てた金の像の礼拝を強いられたとき、イスラエルの三青年の、

「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。
もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。
また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。
わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません

という応答は、「受身的愛情希求」としての甘えとは、全くの対極にある「主体的冒険的賭け」の極限を示すものです(ダニエル3:16-18)。

もっとも、聖書は、そのモーセ像の記述でもあきらかなように、
◉人間を理想化することはしません。

聖書は好むと好まざるとにかかわらず、
◉人間中心的評価に立つ書ではなく、
◉神中心的評価に立つ書物です。

したがって、ダニエル書の記事もまた、英雄的行為を讃美させるのではなく、むしろ、そのように賭けさせる神、彼らの直接的勝利ではなく、「神の究極的勝利」を先取りさせる神を讃美させるのです。

以上のように、聖書のさし示す神、とりわけ、この第三区分(選民失格時代)の仰がせる神は、
◉全く人の目からは隠された時と、所と、方法と、媒介とを用いて、その隠れた支配を遂行する歴史の支配者です。

何となれば、
人間によって作業仮説として
◉利用されない神、
問題解決者としてさえ
◉利用されない神とは、同時に、
◉隠された時、
◉隠された所、
◉隠された方法、
◉隠された媒介を通して、その
◉宇宙救拯の意志を遂行しつづける者として、人に、「賭け」を迫り、冒険を迫る神だからです。

また、創造主が、人の目からは全く隠された時と所と方法と媒介で、その目的を遂行されるということを端的に語るのは、この区分中の
◉「ルツ記」です。

「ルツ物語」は、そのゆたかなロマン性と牧歌調を通してですが、実はそれ自体が、選民至上主義、ひいては民族的偏見に対する手きびしい「告発」文書なのです。

この物語の主人公ルツは、被差別部族として定評のあったモアブの女でした。

モアブ人はアンモン人と共に(申命記の律法によると)「主の会」から閉め出されるよう命じられていました(ネヘミヤ13:1-3)。

【参考】モアブ人とアンモン人、「父・娘姦淫の裔」
「アブラハムは朝早く起き、さきに主の前に立った所に行って、 ソドムとゴモラの方、および低地の全面をながめると、その地の煙が、かまどの煙のように立ちのぼっていた。
こうして神が低地の町々をこぼたれた時、すなわちロトの住んでいた町々を滅ぼされた時、神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された。
ロトはゾアルを出て上り、ふたりの娘と共に山に住んだ。
ゾアルに住むのを恐れたからである。
彼はふたりの娘と共に、ほら穴の中に住んだ。
時に姉が妹に言った、
「わたしたちの父は老い、またこの地には世のならわしのように、わたしたちの所に来る男はいません。
さあ、父に酒を飲ませ、共に寝て、父によって子を残しましょう」。
彼女たちはその夜、父に酒を飲ませ、姉がはいって父と共に寝た。
ロトは娘が寝たのも、起きたのも知らなかった。
あくる日、姉は妹に言った、
「わたしは昨夜、父と寝ました。
わたしたちは今夜もまた父に酒を飲ませましょう。
そしてあなたがはいって共に寝なさい。
わたしたちは父によって子を残しましょう」。
彼らはその夜もまた父に酒を飲ませ、妹が行って父と共に寝た。
ロトは娘の寝たのも、起きたのも知らなかった。
こうしてロトのふたりの娘たちは父によってはらんだ。
姉娘は子を産み、その名をモアブと名づけた。
これは今のモアブびとの先祖である。
妹もまた子を産んで、その名をベニアンミと名づけた。
これは今のアンモンびとの先祖である。」(創世記 19:27-38)

「アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。
彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。」(申命記 23:3)

ところが、ルツ記は、その結末に、イスラエルの王
◉ダビデの家系をしるし、その家系の中に、この
◉モアブの女ルツが入れられていることをしるしているのです。

つまり、そこにしるされているボアズは、ダビデの曾祖父ですが、モアブの女ルツはボアズによってダビデの祖父を生んでいるのです。

つまり、この物語を通して、
◉選民的特権意識に基づく
◉人種偏見が告発されているのです。

偏見とは、無知そのものです。

否、
◉偏見は、人間の知識の増大と正比例してふくれ上がるかのようです。

偏見は、人間の無意識的な深層にまで潜入して活動します。

その恐ろしさについて、鈴木二郎氏は次のようにのべています。

「このようにしておいて、有色人ないし土着民は知識がないとか、技術を持っていないとかいう。
こういう現象だけを捉えれば、単なる知識や技術の程度の区別にすぎないが、それを生みだしたものは、極めて意図的な差別政策である。
そしてこういう差別政策が当然であり、もっともであると、多くの人に思いこませるための合理化として、人民の間に偏見が政策的に作られ、その偏見が利用される。
差別と偏見はいったん作用しだすと、因となり果となって、雪だるまのようにふくれあがり、転がっていくのである。
こうしておけば、支配的な力をもつ人種や民族は、有色人ないし土着民をひどい労働条件のもとに安くこき使っていくことができ、超過利潤をあげることができる。
とても個人の善意やヒューマニズムによって止められるものではない。
突きつめていえば、階級利益のために、あらゆる手が使われるのである。
ただそれが表面的には、人種対人種のよそおいをこらしており、この場合、人種的偏見が階級的なものを生物学上の人種的なものだ、人種の優劣にもとづくものだと誤り信じさせるのに、大きな役割を演じている」と(『人種と偏見』1973年、紀伊国屋書店、101頁および、M・L・キング『自由への大いなる歩み』岩波書店、294頁参照)。

また東上高志氏は、偏見が、「片刃のカミソリ」であることを指摘して、
「鶴見俊輔氏のはなしの中に『偏見は片刃のカミソリ』というのがあります。
偏見の論理学的な構造として、片方だけに刃のついているカミソリをもって来たたとえは、言いえて正に妙と申せましょう。
偏見は、どんな場合にも、他人は切るが、自分はかすり傷一つ負わないという、おそろしい構造をもっているからです」
といっています(『差別・部落問題入門』1975年、三一書房、66頁)。

両書ともに、現代をむしばむ偏見のメカニズムの鋭い告発の書です。

◉聖霊の迫る主客逆転

聖書の記述によると、選び主の
◉「愛しながらの暴露」の出来事の最高峰にそびえ立つのが、旧約以来約束されたメシヤ(救いの主)である
◉イエス・キリストの十字架と復活です。

十字架と復活の出来事は、そのまま「選び主の真実」の証です。

しかしすでにくり返し強調してきたように、そのような
◉「選び主の真実」は、あくまでも
◉「人の不真実」の暴露と同時的に表わされるものです。

しかも聖書は、神、ひいては
◉「選び主に対する人の不真実」は、
◉必ず隣人に対する不真実を結果させることを反復強調します。

神と人との、ひいては選び主と選ばれた者との
◉「垂直関係」は、必ずや、人と人との
◉「水平的、社会的関係」に投映される、というのが、聖書の基本的洞察です。

ところが、選民は、
◉彼らの「不真実」をあばいたイエスを十字架につけてしまいました。

その意味で、イエス・キリストの十字架は、
◉愛に基づく「神の自己限定」と、
自己愛(主客倒錯)の罪に根ざす
◉「人間の自己投映」との「炸裂点」です。

しかし、十字架の主の「復活」は、神の真実、ひいては
◉「選び主の真実」の究極的勝利です。

それが究極的勝利であるというのは、より早く選ばれた者として、より弱い者の弱さを「負う」選民的使命を果たし得なかった彼らの「不真実」が、十字架の主によって「代わって負われた」ことにより、
◉「負われて負う」途が開かれたからです。

「負われて負う」主体とされることは、自己愛に閉ざされた主客倒錯が逆転させられることです。

だがその逆転は、自力では不可能です。

十字架の死後復活した、
◉イエスの霊として降った聖霊によってのみ、人はその主客逆転を迫られるのです。

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」としるされているとおりです(第一コリント12:3)。

「イエスを主と告白する」とはーー自己をつねに主とし、自己をつねに拡大し、その結果神をつねに縮小しようとしている(バルト)ーー人間にとってはまさに、主客を逆転させられる革命的出来事以下ではありえません。

したがって、そのような革命的出来事は、生まれつきの人間の自力で可能とされることではなく、ただ、イエス・キリストの霊ーー
◉負えない人間に代わって負うた十字架の主の霊ーーの迫りによってのみ、初めて可能とされる「主客逆転」的出来事、というよりほかありません。

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信仰雑話>36-4「どうしたら正しく理解することができるか?」55、次は36-5「どうしたら正しく理解することができるか?」56
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