(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)
(7)神と人との対話
⑺新約聖書での「対話」
旧約聖書の「対論」と、新約聖書の「対論」では、
◉大きな違いがあります。
旧約聖書では、
「神から人へ」「人から神へ」という、
◉「神と人」の対論になっていますが、
◉新約聖書では、これは絶対にありません。
新約聖書では、 神は神でも「人となってきた神」(イエス=人)に対する人からの対論で、
◉「人と人(イエス)」との「対論」です。
これはきわめて当然のことで、旧約聖書での
◉「神」と「民=選民・イスラエル」との関係は、下記の申命記に書かれているように、
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。
あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。
事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。
しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。
あなたは知っているのだ。
あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。
主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。
主を憎む者には猶予はされない。
たちどころに報いられる。
私が、きょう、あなたに命じる命令――おきてと定め――を守り行わなければならない。
それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行うならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。」(申命記7:6ー13)
上記のように
◉「選び」
◉「誓い(=約束)」
◉「出エジプト」の一切が、
◉「恵み」そのものです。
その「恵み」に基礎をおいた神と人との間に結ばれた
◉「契約」によるものでした。
聖書の証する「神」は、
◉「有って有るもの」と自現された「神」で、何モノにも拘束されず、絶対に対象化されない存在です。
その「神」が、人間のために、それも弱小民族である眇たるイスラエルと「契約」という
◉「双方を拘束する関係に入られた」ということが、「恵み」なのです。
◉「約束」も同じです。
したがって、神が民を断罪する場合、当然、神からの断罪の理由説明としての
◉「論告」と、人からの
◉「抗弁」とが書かれています。
一方、新約聖書での「神と人」との関係、「キリストと教会」との関係は、その基礎が
◉「恵み」であるだけでなく、その直接関係は十字架の贖罪という
◉「憐れみ」そのものでした。
したがってそこには、「神から人へ」「キリストから教会へ」の対論の必要もなく、もちろん
◉「人から神へ」「教会からキリストへ」の対論も絶対にないのです。
エペソ1:23の、
「教会はキリストのからだ」
という規定が、「対論」の不要を如実に表しています。
◉「頭(かしら)」と「体(からだ)」の「対論」などあり得ません。
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
と言われる通りだからです。
【参考】「宇宙の神的回復」
「宇宙の神的回復」を書いたのが、教会を規定する言葉である、
◉「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす(宇宙の神的回復をする)方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)
という言葉です。
パウロは、この「いっさのもの」を、
◉「万物」「被造物全体」の意味に用いています(Ⅰコリント3:21、15:27、28)。
ことにエペソ書では、
「時がついに満ちて、実現します。
いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。」(エペソ1:10)
と、「被造物すべて」に用いています。
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
という言葉は、
◉「教会はキリストの体であって」、そのキリストは
◉「全宇宙をすべての部分に満す」、または
◉「すべてのその部分を全宇宙に満す」ものであり、
◉「教会はそのキリストの満ちておられる所」という意味になります。
換言すれば、キリストが「全宇宙の全被造物界」「全世界の現在のあり方」を全的に変更し、これをまったく
◉「転倒させる者」であり、教会とは、この
◉「キリストの盈満」(満ちているところ)であるという意味です。
ロマ書8:20の、
「それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。」
という言葉が鍵になります。
キリストの「救い」は、人間を
◉「罪から救う」だけでなく、世界とそのすべての
◉被造物とを「虚無から救う」のです。(Ⅰコリント15:27ー28、コロサイ1:15ー17、20、エペソ1:10、エペソ1:22)
神の創造である「天地」が、その最初の形を回復し、
◉「完全な天地」とされるのです。
「始源的な性格の回復」です。
被造物の個性が、そのロゴス的性格の回復で
◉「真の個性的存在」とされます。
普通言われる「個性」は、
◉「相対的」なものでしかありませんが、回復される「個性」は、
◉「真の個性」なのです。
教会とは、
「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」の「満ちておられるところ」(エペソ1:23)
という句は、多くの誤解を生んでいる箇所です。
「教会」は、キリストの満ちる「場所」「容器」のように受け取られますが、「満たされる者の盈満(満ち溢れる)」で、
◉教会とはキリストの「盈満(えいまん)そのもの」と規定されます。
これを間違うと、
◉キリストが世界を「満たす」ということと、
◉教会が世界を「満たす」ということとを結びつけてしまいます。
キリストが、世界を満たすので、
◉教会が世界を満たすのではありません。
教会は、キリストの「宇宙的創造回復」に参与させられるだけです。
「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられる者の盈満(えいまん)」という「宇宙的意義」を与えられた教会は、光栄ある意義づけを受けているのです。
「宇宙的創造回復」が実現されるのは、
◉「神の大権」によることで、人間がどうすることも出来ません。
でも、教会はこれに参与する使命を担わされています。
「これらのことはすべて、神から出ているのです。
神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(Ⅱコリント5:18ー19)
がそれです。
◉「宣教の使命」そのものが、
◉「宇宙的創造回復」を教えています。
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信仰雑話>37-7「どうしたら正しく理解することができるか?」65、次は37-8「どうしたら正しく理解することができるか?」66
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