38-2「どうしたら正しく理解することができるか?」73

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

聖書の正しい読了観⑵

◉「救拯史的俯瞰」

地理的見方に続いてみなければならないのは、聖書の「歴史的俯瞰」です。

歴史的俯瞰も、地理的見方の場合と同様に、「普通史」ではなく、聖書の中で活動している「選民イスラエル・ユダヤ」と「教会」の歴史をみなければなりません。

それが聖書の世界の「救拯史的俯瞰」です。

この世界に現われている「救拯史」をみると、まず目に入るのは、創世記の「楽園喪失」(創世記3章)に始まり、黙示録の「楽園回復」(黙示録21-22章)に終わる一大パノラマです。

この「救拯史」は二つに分かれ、「選民」のそれと「教会」のそれとになっています。

それは「選民史」から教会へ上昇的に進展するように見えながら、「選民が終わり教会が始まる」ことによって、まったくひるがえされています。

選民のいっさいは、教会によって初めてその「救拯史」としての意義が明白にされているのです。

この「救拯史」の特徴は、二つあります。

その一は、積極的側面で「上なるもの」に対するその人間の「主体的」「自覚的決断」によって、その「歴史の方向」が決定されていることです。

その二は、この主体の「自覚的決断」によって、地理的、物質的なものが善用または悪用されていることです。

この聖書世界の「歴史的俯瞰」は、歴史の方向が、人間的主体の自覚的「決断」によって決定されている事実を発見して、これを「胃の腑」におとす必要があります。

一般的にも、歴史は決断によってつくられますが、この場合は、「上なるもの」という特定なものに対して、この主体が、それと明らかに自覚することによって決断し、その決断によってその方向が決定されているのです。

その意味で、この「決断」は「信仰的判断」と言えます。

このことはまず原人アダムとエバが楽園で、神の禁止に対してとった「信仰的判断」による背反によって(創世記3章)、全人類の歴史の方向が決定されたことによって見られ、それによって全救拯史が象徴的に説明されています。

次に義人ノアが、神の警告に対して箱舟を作ることによって示した「信仰的判断」は、新世界の経営者としてノアと彼の子孫が選ばれる源となりました(創世記6:8以下)。

またノアの子たちのうちハムの子カナンとハムの兄弟セムとヤペテとが「神を代表する族長」であるノアに対する「信仰的判断」が、それぞれの子孫の歴史的方向を決定しました(創世記9:18以下)。

さらに選民イスラエルの選民としての方向を決定した二つの「信仰的判断」がみられます。

その一は、太祖アブラハムの「信仰的判断」で、彼は上からの召命を聞いたとき、そのいっさいを捨てて、これに従い、「行く処を知らず」に出発しました(創世記12:1-3)。

その二は、始祖ヤコブは「ヤボクの渡し」での「信仰的判断」を迫られ、そこで初めて「イスラエル」と改名させられ、選民・イスラエルの始祖とされました(創世記32:24以下)。 

出エジプトと荒野彷徨時代には、モーセの「信仰的判断」と民衆との「判断」が正反対になり、モーセの「信仰的判断」で全民族の進路は「約束の地」に向かって決定され、モーセと対立した民衆の「判断」は彼らを死に至らせました(出エジプト記33:12以下、民数紀14:22以下、26:64、申命記1:35、2:14)。

こうしてこの両者の判断の結果は、全民族の進行を四十年の荒野彷徨となりました。

この間、個人的な「信仰的判断」が個人的方向を決定したことがうかがわれます。

⚫︎ヨシュアとカレブの場合(民数紀13:30、14:24)、
⚫︎アロンの場合(民数記20:24以下)、
⚫︎モーセの場合(民数記27:14以下)、

このように、代表者または指導者の「信仰的判断」で、その歴史の方向を決定されたイスラエルは、カナン土着後においても常にその危機的な「信仰的判断」を迫られました。

多くの預言者が遣わされたのもそのためでした。

しかし民の指導者たちの「上なるもの」に対する背反的な「信仰的判断」は、ついにその国を滅ぼすに至ったのです(Ⅱ列王記17:7以下、24:20)。

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