37-13「どうしたら正しく理解することができるか?」71

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(71)神と人との対話

(13)イエスと論敵との「対話」

聖書は、
◉「対論」で成り立っています。

旧約聖書の
◉「神から人へ」「人から神へ」「神から人へ、人から神へ」という「神と人」との対論から、
◉新約聖書の、神は神でも「人となってきた神」(イエス=人)に対する人からの対論「人と人」との対論をみてくると、◉旧約聖書も、新約聖書もそのほとんどが「対論」で成り立っています。

「愚かで、無知な思弁を避けなさい。
それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです。
主のしもべが争ってはいけません。」(Ⅱテモテ2:23ー24)、

「しかし、愚かな議論、系図、口論、律法についての論争などを避けなさい。それらは無益で、むだなものです。」(テトス3:9)、

など、「対話」「対論」「対決」を、「悪」であるかのように考えさせる言葉が、実は
◉「感情的論争」に対するもので、
◉「正しい対話」に対するものではないことが分かります。

対話」は「対論」になり、必ず「対決」になります

◉「対話」から「対論」へ。そして「対決」へ。

◉「対決」の事例は、旧約聖書、新約聖書にたくさんありますが、その中の好例は、次のイエスと弟子たちとのものでしょう。

「さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。
『人々は人の子(イエス)をだれだと言っていますか。』
彼らは言った。
『バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。
またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。』
イエスは彼らに言われた。
『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』
シモン・ペテロが答えて言った。
『あなたは、生ける神の御子キリストです。』
するとイエスは、彼に答えて言われた。
『バルヨナ・シモン。
あなたは幸いです。
このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
ではわたしもあなたに言います。
あなたはペテロです。
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
ハデスの門もそれには打ち勝てません。
わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。
何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。』(マタイ16:13ー19)

イエスが弟子たちに、
あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。
と、「対決」迫った場面です。

この「対決」に対して、
あなたは、生ける神の御子キリストです。
というペテロの「決断」=「信仰告白」の上に「教会」を建てるということです。

イエスが在世しないいまは、教会とキリスト者の間にあるのは、
◉「聖書との対話・対論・対決」だけです。

教会とキリスト者は常に、この聖書との「対話」「対論」「対決」を通して、「決断」による「信仰告白」の上に立てあげられてきました。

【参考】

◉世界的な聖書の体系学者・渡辺善太博士は、
「聖書が教会に正典すなわち規準として与えられたことは、そのこと自身すでに教会が、それが過ぎゆく個々の、すべての時代において、その時代特有の問いをもって問いかけられ、これに対していかに答えるべきか苦しまざるを得ないことを予想している。
その問いはいうまでもなく、教会の内面的あり方への問いであり、また教会の外面的態度への問いである。
この問いを問いかけられる教会とその肢((一人ひとりの信者)とは、たとえ信仰においてあるとはいえ、人間であり、人間の集いである。
したがってそれは規準である聖書を自己の都合のよいように、恣意的に解釈する危険を常にもつものであるとともに、聖書のその問いに対する答えを聞いたとしても、これに対してたやすく聴従出来ない『生来の強さ』を常にもっている。
それが時代的に目ざめて、真に主体的自覚に立って、聖書と相対峙することになるのだから、そこには真の苦闘がーーヤボクの渡しにおけるヤコブと何者とも知られない者との格闘のような苦闘が(創世記33:24)、必然的に起こらざるをえない。
その結果として解釈者は聖書の前にひれ伏させられ、聖書を仰いで、その『問い』に対して、聖書の語りきかせることを聞かされる。
しかしその聞かされた聖書の答えるところとしてでなく、同時にそれを『我が』答えるべき言葉として受け取り、かつ立ち上がるのである。
かくしてこそ初めてこの解釈が、その「対決的性格」を発揮することになる。
そうしてこの解釈において、聖書の正典性すなわち規準性が、人間の営みとしての解釈の結果として、十全にその性格を発揮することになるのである。」(『渡辺善太全集』第6巻、485頁)。

◉解釈者の自己投映が、野放しにされると、「自己絶対化」としての「イデオロギー化」につながるかに対する、ティーリケの警告を引用します。

ティーリケによると「イデオロギー化」とは、現実の問題をーー例えば、人種問題などーー形而上学的な次元にもち上げ、いわばそれに神聖な意味内容を付与する、ということであるが、それに対してティーリケは聖書解釈との関連で、次のような致命的な事実にふれています。

「イデオロギーによって問題をかすませてしまう行為は、それがキリスト者の間でなされる場合、とくに厄介な、気が滅入るようなものとなります。
私はアフリカの国々でそれを経験しました。
そこではかなり多くの教会(また牧師、神学者たち!)が何世紀にもわたって聖書を酪使し、どんなペテン師的方法とも比較できない程の愚かしさで、テキストの自分かってな解釈を行ない、神の言葉にもとづいて、神が白人には世界支配者としての地位を、また黒人には、この青白い顔をした神の寵児(白人)たちに奉仕する役を与えていることを『証明』しようとしているのです。
私はこういう人たちとたびたび議論しましたが、このぞっとするような考え方に接して、思わず怒鳴りつけたい衝動にさえ駆られました」
とは、その切実な体験報告です(『現代キリスト教入門』佐伯訳、ヨルダン社、228頁)。

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信仰雑話>37-13「どうしたら正しく理解することができるか?」71、次は38-1「どうしたら正しく理解することができるか?」72
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