37-12「どうしたら正しく理解することができるか?」70

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(70)神と人との対話

(12)イエスと論敵との「対話」

◉「対論」は、「伝道」と「証言」で、その顕著な実例があります。

アレキサンドリヤ生まれのアポロが、プリスキラとアクラによって「詳細に神の道を解き明」かされた後にただちにしたことは、この「対論」による「証言」でした。

「彼は聖書(旧約聖書)によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。」(使徒18:28)

イエスがキリストであることを証明して」というのは「証言」です。

論破した」とは、アポロの「対論」が、ずば抜けていたことを示しています。

使徒の記録で、原始教会での「対論」の位置をみたあと、
◉書簡でも「証言的対論」の事実を確めることができます。

パウロは、Ⅱコリントで、聖霊による「対論」の強さを語っています。

「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」(Ⅱコリント10:4ー5)

とは、パウロの「証言的対論」に対する確信を示す言葉です。

この「対論」は、パウロがⅠコリントで書いているように「説得力のある知恵の言葉」によったものでなく、「御霊と御力の現れ」(Ⅰコリント2:1ー5)によったものとしています。

再度、書きます。
この
◉「御霊と御力」との証明によるとは、人間の言葉以外の
◉「以心伝心的」とか「神秘的伝達」によるものではなく、どこまでも
◉「人間の言語」による「説教」と「対論」とによることだったことは絶対に忘れてはならないことです。

パウロは、その書簡を書くときにも、その宛先の教会を、まるで一人の人に書くように書いています。

これは「以心伝心的」や「神秘的伝達」をまったく排斥したことを意味しています。

ガラテヤ書が、特に顕著です。

ガラテヤ書は、教会を相手として、パウロが「対論」によって、その「福音の本質」を解明したものです。

使徒に記録されている「対論」の記事の「内面的説明」を人間の言語によって行ったものです。

◉初代教会を二分した「割礼問題」

原始教会で、最も重大で危機的な問題は、「割礼」に関してでした。

ユダヤ的キリスト者は、異邦人が悔改てキリスト信者となる場合、ユダヤ教の規定である
◉「割礼」を受けるべきである、と主張しました。

これに対して異邦人キリスト者は、
◉「割礼」は無用で、ただちにキリスト者となれると主張しました。

この白と黒ほどに違う主張は、原始教会を分裂させると思われた問題でした。

使徒たちはそれぞれこの両派のいずれかに加わつていました。

イエスのイエスの兄弟ヤコブは
◉ユダヤ的キリスト教側の有力者だったし、パウロは
◉異邦人的キリスト教の指導者でした。

パウロがガラテヤ書を書いたのも、ユダヤ的キリスト教の指導者たちによって、ガラテヤ教会が撹乱されたためでした。

この「割礼問題」が
◉個人的問題(ケパ=ペテロ、バルナバ)にまでなったことが、ガラテヤ書のパウロの言葉に書かれています。

「ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人(無割礼の人々)といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。
そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。
しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。
『あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。』」(ガラテヤ2:11ー14)。

使徒の17章は、キリスト教の歴史で
◉「最初の全教会会議」の召集であり、その会議の
◉「進行のし方」と、その
◉「結論」と、その
◉「信仰的一致」とを示した重要な記録です。

教会を二分しかねない「割礼問題」で召集された教会会議の理由は、

「さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、
『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』
と教えていた。
そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。」(使徒15:1ー2)

という状況でした。

「そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。」のですが、冒頭で
◉「激しい論争」(使徒15:7)と記しています。

異邦人的キリスト教の代表者であり、その中心であるアンテオケ教会の代表者であるパウロとバルナバが一方におり、他方には場所がエルサレムですから、多数のユダヤ的キリスト教の指導者がいたのです。

使徒の著者ルカは、この会議の最初の「対論」の模様を、簡単に「激しい対立と論争」と一言で表現していますが、そこでは十分に
◉「対論」が尽くされ、各人の主張が論じ尽されたのです。

ほぼ「対論」の尽きたころ、あらためてペテロ、パウロ、バルナバとヤコブが立って結論的にこれを論じました。

ペテロは彼の宣教の間に、特に神より与えられた幻の結果としてコルネリオとその関係者に伝道し、この人たちに聖霊が与えられ、
◉ユダヤ人と異邦人との間に隔ての置かれなかったことを論じました。(使徒10章)

そこで、バルナバとパウロが立ってさらにその伝道旅行中の経験(使徒11:19-24)を元に、「割礼」を異邦人に対して強制してはならないことを論じました。

その上で、司会者の立場だったヤコブが立って、
◉聖書(旧約聖書)に基づき、その預言を引用して、パウロとバルナバの正しいことを論証したのです。

教会を二分しかねない「割礼問題」も、
◉「人と人」との「対論」で一致をみたのです。

(「割礼」=創世記17:10=
「次のことが、わたし(神)とあなたがた(ユダヤ人)と、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。
あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。」、

イエスの十字架の死と復活以降、割礼は

「かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。」(ロマ書 2:29 ))

「割礼問題」の教会会議で、司会者であったヤコブは議論の終わりに重要な発言をしています。

ヤコブは多くの「対論」を聞いて後、聖書(旧約聖書)からの引用の解釈をして、

◉「そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。」(使徒15:19)

と、「私の判断では」と言ったことです。

「判断」とは、全会議を(陰で)指導した「聖霊」が、ヤコブの中に与えた◉「高次の結論」だったのです。

これで教会の分裂が防がれました。

全会一致して人を選び、パウロとバルナバと共に、異邦人キリスト教の中心であるアンテオケ教会に「公書簡」を持って行かせました。

「公書簡」には、ヤコブの「結論」を順序を整えて書かれています。

「兄弟である使徒および長老たちは、アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟たちに、あいさつをいたします。
私たちの中のある者たちが、私たちからは何も指示を受けていないのに、いろいろなことを言ってあなたがたを動揺させ、あなたがたの心を乱したことを聞きました。
そこで、私たちは人々を選び、私たちの愛するバルナバおよびパウロといっしょに、あなたがたのところへ送ることに衆議一決しました。
このバルナバとパウロは、私たちの主イエス・キリストの御名のために、いのちを投げ出した人たちです。
こういうわけで、私たちはユダとシラスを送りました。彼らは口頭で同じ趣旨のことを伝えるはずです。
聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。
すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」
(使徒15:23ー29)

この中に二つの重要な表現があります。

第一は、「衆議一決」という言葉です。
そこには「真の一致」が得られたことが示されています。

第二は、「聖霊と私たち」という言葉です。

この「結論」は、「対論」と「主張」だけで得られたものではなく、終始会議を通して彼らと共にいた「聖霊が、到達させた結論」であることの「確信」を示す言葉です。

「対論」を避けずに、尽すべき「主張」を尽したこの会議は、人間的には予想出来ない「一致」と「結論」と「確信」とが与えられたのです。

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信仰雑話>37-12「どうしたら正しく理解することができるか?」70、次は37-13「どうしたら正しく理解することができるか?」71
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