36-1「どうしたら正しく理解することができるか?」52

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(52)聖書の時代区分①

聖書は、旧約聖書39冊、新約聖書27冊、合わせて
◉66冊をもって一巻とする書物です。

そこにはハッキリとした
◉時代区分があります。

古池や 蛙飛び込む 水の音」の中の「古池」だけでも、「蛙」だけを取り出しても、この俳句の言うところは伝わりません。

それと同じように、聖書も、「あのみ言葉」「このみ言葉」では、聖書の言うところは絶対に伝わりません。

要約すれば聖書は、「愛しながら、暴露する神の言葉」となります。

ここでは時代区分ごとの聖書の使信をみます。

下記の時代区分にしたがって、それぞれの時代区分ごとの意図を6回に分けてみていきます。

◉旧約聖書

◉第一区分「律法」ーー「選民の育成時代」
創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記

◉第二区分「預言者」ーー「選民の実践時代」
(1)前預言者 ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王紀
(2)後預言者 イザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書・十二預言者

◉第三区分「書冊」ーー「選民の失格時代」
(1)真理  詩篇・箴言・ヨブ記
(2)巻物  雅歌・ルツ記・哀歌・伝道の書・エステル記
(3)    ダニエル書・エズラ・ネヘミヤ記・歴代志

◉新約聖書

◉第一区分「子なる神」ーー「神の国宣教時代」

⚫︎マタイによる福音書ーーイエスが提示した「神の国」成就の條件によって暴露された「選民の醜悪な特権意識」。

⚫︎マルコによる福音書ーーイエスの神の独り子としての「排他的権能」によって暴露された「選民の自己神格化」。

⚫︎ルカによる福音書ーー選民史に深く根を降ろしていた筈の「ヨベルの年」の意義をさえ無視させた「選民の自己過信」。

⚫︎ヨハネによる福音書ーー選民史の破局は、皮肉にも、選民のメシヤであるイエスを十字架につけるという歴史的出来事において客観化されました。
「彼(イエス)は自分のところ(イスラエル)にきたのに、自分の民(イスラエル)は、彼(イエス)を受けいれなかった」(ヨハネ1:1)
としるされているとおりです。

◉第二区分「聖霊なる教会」の時代

聖霊に先導されつつも、現実教会の歩みは、文字どおり、よろめきつつの歩みに過ぎません。

しかしそこには、現実教会のいっさいの汚れと弱さと貧しさを
◉「超えて」、
◉「主の再臨」を待望させると共に、教会に敵するいっさいの悪意をも「変容して」、その
◉宇宙救拯の聖旨を遂行をしたもう神が仰がれています。

⚫︎使徒行伝
⚫︎ローマの人への手紙
⚫︎コリント人への第一の手紙
⚫︎コリント人への第二の手紙
⚫︎ガラテヤ人への手紙
⚫︎エペソ人への手紙
⚫︎ピリピ人への手紙
⚫︎コロサイ人への手紙
⚫︎テサロニケ人への第一の手紙
⚫︎テサロニケ人への第二の手
⚫︎テモテへの第一の手紙
⚫︎テモテへの第二の手紙
⚫︎テトスへの手紙
⚫︎ピレモンへの手紙
⚫︎ヘブル人への手紙
⚫︎ヤコブへの手紙
⚫︎ペテロ第一の手紙
⚫︎ペテロ第二の手紙
⚫︎ヨハネ第一の手紙
⚫︎ヨハネ第二の手紙
⚫︎ヨハネ第三の手紙
⚫︎ユダの手紙

◉第三区分「父なる神」の時代ーー「宇宙万物の再完成」

⚫︎ヨハネの黙示録

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信仰雑話>36-1「どうしたら正しく理解することができるか?」52、次は36-2「どうしたら正しく理解することができるか?」53
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35-25「どうしたら正しく理解することができるか?」51

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(51)出来事の事例

◉英国国教会の監督バトラーは、「The analogy of Religion」を1736年に刊行しました。

彼は1752年6月、臨終の床にありましたが、彼はそのチャプレンを呼んで、
「自分は罪を犯さないように、あらゆる努力をし、神を喜ばせるために全力を尽した。
しかし、不断の弱さのために、自分は今死ぬのが怖い」
と言ったのです。

その時チャプレンは、
「監督よ。
あなたはイエス・キリストが救い主であることを忘れておいでになる」
と答えました。

バトラーはさらに、
「そうには違いない。
しかしイエス・キリストが私の『救い主』であるということを、どのように知ることが出来るのか?」
と聞きました。

チャプレンは、
「監督よ、聖書には、
『父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。
そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。』(ヨハネ6:37)と書いてあります」
とヨハネ伝の言葉で、バトラーに答えたのです。

バトラーは、
「本当だ、私は聖書を数千回読んだけれども、この瞬間までその力を感じなかった。
しかし今は幸いに死ぬことができる」
と答え、静寂のうちに、60歳をもって同月16日永久にその目を閉じました。

キリスト教会史はこの「出来事」の連続であったし、また連続でなければならないのです。

この「出来事」の連続であったからこそ、あらゆる俗化と堕落とにもかかわらず、今日なおそれが「キリスト教会」であり得るのです。

それが昨日のそれだけでなく、今日のそれだけでなく、明日もまた「キリスト教会」であるためには、この「出来事」の連続でなければならないのです。

そうであってこそ教会がその「正典」として信奉させられた聖書が、「キリスト証言」であるといわれた意味と事実とが、不断に、くり返して、具現されるのです。

バトラーのほかには下記のような事例もあります。

古典的なものとしては、
◉アウグスティヌスの場合は、ロマ書13:13を読んだ瞬間が彼の「できごと」の瞬間でした。

(ロマ書13:13以下=

「そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。
あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。
肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」)。

◉フランチェスコの場合の「出来事」は、下記の箇所を読んだ瞬間に起こされました。

(マタイ10:9以下 =

「財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。
旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。
働き人がその食物を得るのは当然である。
どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。
その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。
もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。
もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。
もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。」)。

◉ルターの場合の「瞬間」は、ロマ書1:17でした。

(ロマ書1:17=「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。
これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」)。

◉近世では、パスカルの場合があげられます。

「恵みの年一六五四年十一月二十三日、月曜日、教皇であり、殉教者である聖・クレマンおよび殉教者名簿の中の他の人々の祭日、殉教者・聖クリソゴーヌおよび他の人々の祭日の前夜、夜十時半ごろより零時半ごろまで。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。』(出エジプト記3:6、マタイ22:31)
哲学者および学者の神ならず、確信、確信、感激、歓喜、平和。
イエス・キリストの神。
『わが神、すなわち汝らの神。』
神以外のこの世およびいっさいのものの忘却」
とは、この「出来事」をしるした「彼の覚え書き」の言葉です(由木康著「パスカル伝」140ページ)。

◉これと同様のことが、米国ニューイングランドの大神学者であり、大説教者であったジ’ョナサン・エドワーズにおいても起こっています。

彼はある日、
Ⅰテモテ1:17=

「世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。」

を読んでいましたが、突然その言葉を通して、神と神的なすべての事柄に対する内的歓喜が彼の全身をひたしたのです。

これが単なる一時的感情でなかったことは、彼がこの「出来事」とともに、その全存在を神にささげる決意をしたことによって知られています。
1723年1月12日のことでした。

◉日本人として知られているのは、同志社大学の創立者・新島襄氏です。

新島襄氏のことについては、同志社大学神学部教授・小原 克博氏のネット上の記述を引用させていただきます。「」内は新島襄氏の日記です。

「ある日、友人を訪ねると、彼の書斎で聖書を抜粋した小冊子を見つけた。
それはあるアメリカの宣教師が漢文で書いたもので、聖書の中のもっとも重要な出来事だけが記してあった。
私はそれを彼から借り、夜に読んでみた。
なぜなら聖書を読んでいることが知れると、幕府は私の家族全員を磔(はりつけ)にするので、私は野蛮な国のおきてを恐れていたからだ。」

小冊子、しかも漢文で書かれた小冊子だということがわかります。

日本語ではなく中国でつくられたであろう漢訳の聖書の一部を抜粋したものを新島は手にして、しかもそれをこっそりと夜に読んだということです。

見つかったからといって当時、磔にされるとは思いませんが、まだキリシタン禁制の高札が立っていた時代ですから、おおっぴらに聖書を読むことは憚(はばか)られていました。

ひっそり隠れるように聖書を読むなかで、何を読み取ったのかを新島は書くのですが、その一部を紹介したいと思います。

「私はその本を置き、あたりを見まわしてからこう言った。
『誰が私を創ったのか。
両親か。
いや、神だ。
私の机を作ったのは誰か。
大工か。
いや、神は地上に木を育てられた。
神は大工に私の机を作らせられたが、その机は現実にどこかの木からできたものだ。
そうであるなら私は神に感謝し、神を信じ、神に対して正直にならなくてはならない』」。

新島はもっとちゃんとした聖書を読みたいという気持ちが大きくなっていくのです。

そして彼が超えられなかった一線、家族思いで家族を残しては国を捨てることかできないという新島を最後に一押ししたのが、まさに創造主なる神との出会いであったということです。

ここは断片的な小さな、小さな聖書の一節が新島の心をとらえて、天地創造の神と出会わせたのです。

(以上、同志社大学神学部教授・小原 克博氏のネット上の記事を引用させていただきました)

上記のように
◉「聖霊」による一新の結果は、他者がみても判然とわかるものなのです。

◉その人の神に対する態度は、必ず、社会的、水平的態度に反映される、というのが旧約聖書と新約聖書の一貫した主張です。

【参考】

「イエスは言われた。
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。(垂直関係・対神関係)
第二も、これと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(水平関係・対社会関係)(マタイ22:37~40)

イエスが「ヨベルの主」(貧しい者の「めぐみの年」)と自現された通り、より富める者が、より貧しい者の貧しさを、より強い者が、より弱い者の弱さを、より賢い者が、より愚かな者の愚かさを「負う」という実践が行われるからです。

この「出来事」を体験した人が教会の創始者になると、その「出来事」の媒介となった聖句から発生した「教義」によって、聖書を解釈するようになります。

この創始者が、彼の上に起こった「出来事」の媒介となった聖句を標準として、聖書全体を解釈するのを、教義的解釈として否定せず、「より正しい」ーー真の個性的解釈と呼ぶのは何故でしょうか。

それは一言で答えることができます。

◉人間にはこれ以上の聖書解釈は望み得ることでもなく、許されてもいませんし、これ以下の聖書解釈を真なりとすることも許されていません。

ここに聖書解釈の結論に関する
◉個性的差異が必然的に起こるし、また起こらざるを得ないのです。

ここまでくると、下記の聖書の
◉「公同性」の意味が理解されてきます。

聖書解釈者は上述の「出来事」が彼の上に起こっても、なお彼の聖書解釈の結果が、可謬的であり、一面的であり、個性的であることを学びます。

それを少しでも是正するためには、彼の結論の上に確信的に立ちながら、しかも彼はなお聖書に沈潜して、聖書中にある彼の結論と正反対の結論を引きださせるものと対決しなければならないのです。

そのとき初めて彼は、一面的であり、個性的でありながら、徐々に聖書の「公同性」へと導かれてゆくことができます。

【公同性】

「包括性」あるいは「多彩性における統一」unity in varietyという聖書の自己主張の様式が、すなわち「公同性」の原理です。

結論的に言えば、聖書の規範的権威は、この「公同性」すなわち「多彩性における統一」においてしか現われ出て来ないところの、特殊な性格をもっています。

聖書を構成しているのは、調和しがたい個性的主張をもつ六十六冊の書物だからです。

しかしそれにもかかわらず、主が、
この聖書はわたしについてあかしをするものである
と言いたもうた言葉に、教会は、聖書の「キリスト証言」という統一的性格を見いだしました(ヨハネ5:39)。

したがってたとえば、ローマ人への手紙は、キリスト教の本質を公的に明らかにするものとして完璧な書でありながら、これ一冊をもって、聖書全体に代えることは許されません。

この「公同性」ということは、聖書の自己主張の様式であると同時に、教会の存在様式です。

信仰は一つ、御霊は一つ、バプテスマは一つであり、「キリストの体なる教会」もまた一つです。

したがって、全世界の教会は単一の教会においてあるものです。

いうまでもなく、「多くの肢・えだ」とよばれている個々の現実の教会は、それぞれ教派的伝統をになっております(Ⅰコリント12:14)。

各個教会はたとえ、教団という公同的枠(わく)の中に入れられたものであっても、それぞれ過去の遺産としての個性的主張や個性的傾向において、色彩を異にしております。

人間は本来、個性的存在であるように、各個教会が個性的であるということは、何ら責むべきことではありません。

しかし「個性的であるということは、必然的に一面的である」ということの認識がこれに伴わなければとんでもない結果を招くことになります。

つまり、個性的であることが、ひとたび、他との対話関係を断ち切ってしまって、自己のみ(自己の教派のみ)に閉じこもってしまうことを意味するとなると、これは致命的です。

そこには必ず、「ひとりよがり」と「偏狭」と「教派主義」とに虫ばまれる弱体化が待つのみだからです。

教会史の立証をまつまでもなく、現実の教会は、裂き得ざる「キリストとの体」を裂くという危険を、つねにはらんでいます。

このような危険から救われる道は、聖書正典の規範性ひいてはその「公同性」に立ち帰らされるほかありません。

というのは、他と対話できないほど、自己に立てこもるということは、とりも直さず信仰的判断の、究極的規範を、自己または自己の教派においているということの証拠だからです。

したがって、他教派との対話が可能な地盤に立つためには、各教派が、聖書正典の「公同的規範」を、「究極的なもの」として信奉する、というところまで、歩み出さねばならないということになります。

聖書のさし示す「公同性」とは、現実教会それぞれのもつ固有性を殺すものではなく、かえってこれを生かすものです。

固有性を殺したところに成り立つのは、画一性であって「公同性」ではありません。

したがって各個教会およびその伝統的遺産の、個性的特徴を包括的に生かしつつ、しかもこれらを致命的な分裂に至らせないためには、ただ一つの道しかありません。

約言すれば、聖書正典信仰とそれに立脚した解釈のみが、あらゆる教派を対話関係に保たせうる唯一の「広場」であるということです。

それでは、現代のいわゆるエキュメニカル・チャーチ・ムーブメントがめざしている世界教会がなぜもっと早く実現しなかったのでしょうか。

その原因は種々考えられますが、その根本的原因は、この聖書の正典性、ひいてはその規範性と「公同性」とが、厳格にかつ深刻に掘り下げて考察されなかったということではなかったでしょうか。

それは、要するに、各教派、各個教会はーーその肢である個々人をも含めてーーそれぞれのもつ「伝統的主張」を聖書によって裏づけるのに急で、「聖書正典」が総体として、各教派の個性的主張を「公同的」に包括しつつ、それをひとたび殺して生かすーーあるいは否定して肯定するというところまで思い至らなかったことにあるといえます。

今日の急務は、聖書正典の権威とその位置の確立を、教会全体の死活問題として、期することではないでしょうか。

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35-24「どうしたら正しく理解することができるか?」50

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(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(50)歴代志

現形歴代志
◉「正しい神礼拝のもつ歴史的威力」を語る書ですが、その思想は、
①選民の象徴としての礼拝、
②統一的根拠としての礼拝、
③対決的威力としての礼拝、
の三点から跡づけられます。

◉「選民の象徴としての礼拝」

選民とは聖なる選び主に対して、
◉「祭司の国」
◉「聖き民」
となるために呼び出された民でした(出エジプト記19:6)。

したがってレビ記が示したように、その生活を礼奠的に体系化することこそ選民を選民とする第一の途です。

それ故選民に関わる一切の歴史、伝統、教育の中心であり目標となるのは礼拝及びその祭儀である、とは歴代志の根本主張です。

神がその聖名をおき給うた神殿における礼拝こそ、選民を選民として保たしめる象徴だからです(列王紀王上8:29)

このことは、歴代志がまず、ダビデ以前の系図を述べるに当って、
◉原人アダムまで遡り、
◉全世界の民族が棄てられて、
◉イスラエルのみが抽出されている系図にも、
◉正しい礼拝所である神殿を建設し、その祭儀を完備させようとする、
◉神的意図と構想とが隠されていたものと観ていることにおいて示されています。

そして歴代志においては、その一切が、神殿準備者としてのダビデを登場させ、神殿建築者としてのソロモンを拡大させるための媒介とみられ、全体の歴史的記述の中心人物としてダビデ及びソロモンが浮彫にされています。

歴代志はその材料をサムエル記や列王紀に仰ぎながら、その修史の意図に妨げとなるような事実は全部省略してーー例えばダビデの道徳的失敗を示す出来事(サムエル記下11章以下参照)などーーもっぱら、神殿礼拝準備者に適わしい
◉理想的ダビデ像を描き出しています(歴代志上29:23以下)。

しかもこのダビデ及びソロモンを出した
◉ユダのみが唯一の正統的選民であることを、本書は、
「主はイスラエルびと、すなわちエフライムのすべての人々と共におられないからです」
という露骨な言で示しています(歴代志下25:7)。

◉「統一的根拠としての礼拝」

現形歴代志は次に、
◉「正しい礼拝こそ、民族を心霊的に統一する根拠」であることを力説しています。

歴代志は「ただ一つ」あるいは「一つ心」という語を通して、民族の心霊的統一を高調しています。

正しい礼奠的改革者であるヒゼキヤの治世については「またユダにおいては神の手が人々に一つ心を与えて」と言い(歴代志下30:12)、ユダとエルサレムに対しては「あなたがたはただ一つの祭壇の前で礼拝し、その上に犠牲をささげなければならない」と反復している通りです(歴代志下32:12)。

また礼拝における音楽が
◉心霊的統一を与える上に特殊な位置をもつことは言うまでもありませんが、その神秘的効果について歴代志は次のような特徴的な言及をしています。

「(ラッパ吹く者と歌うたう者とは、ひとりのように声を合わせて主をほめ感謝した)、そして彼らがラッパと、シンバルとその他の楽器をもって声をふりあげ、主をほめ」た時、
「雲はその宮すなわち主の宮に満ちた。
祭司たちは雲のゆえに立って勤めをすることができなかった。
主の栄光が神の宮に満ちたからである」(歴代志下5:13)

とは、統一的根拠としての礼拝の秘義を指し示す記述です。

◉「対決的威力としての礼拝」

現形歴代志は第三に、
◉「礼拝ひいては讃美こそ勝利の源」であると主張しています。

たとえば列王紀においては、
◉全く不可能事として指摘されていた異教的礼拝所である「たかおか」(高き所)の破壊は、歴代志によれば、
◉「正しい礼拝の威力」によって速かに成し就げられたものとみられています。

ヒゼキヤの代に、酬恩祭を七日守り、

「祭司たちとレビびとは立って、民を祝福したが、その声は聞かれ、その祈は主の聖なるすみかである天に達した」(歴代志下30:22以下)

と述べられていますが、その直後、

「そこにいたイスラエルびとは皆、ユダの町々に出て行って、石柱を砕き、アシラ像を切り倒し、ユダとベニヤミンの全地、およびエフライムとマナセにある高き所と祭壇とを取りこわし、ついにこれをことごとく破壊した」(歴代志下31:1)

という出来事が述べられています。

またモアブ・アンモン・メウニ等の諸民族が連合して、ユダの王ヨシャパテの時攻め寄せましたが、その時の奇蹟的勝利の秘密を歴代志は「讃美」にみています。

すなわち、この時預言者に教えられたようにユダは、選んだ人々に、

「聖なる飾りを着けて軍勢の前に進ませ、主に向かって歌をうたい、かつ賛美させ、
『主に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない』
と言わせた。
そして彼らが歌をうたい、賛美し始めた時、主は伏兵を設け」、

かのユダを攻めてきた敵を打ち敗り給うたものとしています(歴代志下20:21以下)。

讃美こそ勝利の源です。

◉勝利が得られて後に讃美があるのでなく、讃美は勝利に先行すべき絶対的発件である、というのが、現形歴代志の主張です。

このように歴代志は、正しい礼拝こそすべての問題解決の源泉であり、正しい礼拝の遵守なくして、正しい選民的在り方は絶対望めないとしています。

旧約聖書の原典が、このような
◉礼奠中心的国家観・あるいは礼奠中心的歴史観を主張する歴代志をもってその最後の書としていることは示唆深いものがあります。

旧約聖書は、
◉「礼拝の対象」を明示すると同時に正しい
◉「礼拝形式」に対する感覚を強調していると言えます

その意味において旧約聖書は形式否定の立場に陥らず、と言って形式絶対化の立場にも堕しません。

礼拝の
◉「対象」のみが一方的に強調される時、そこには正しい公同性を無視する個人主義が生れます。

しかし礼拝の
◉「形式」のみが一方的に強調される時、そこに個人の主体性を殺すような全体主義が派生します。

しかし礼拝の唯一の対象である絶対的主体なる神は、
◉アブラハム・イサク・ヤコブという個人の神であると同時に、その
◉「聖名をおき給うた公同の場」で出会うことを要請し給う神です。

旧約聖書はあくまでも、一面的畸型(きけい)的な理解を審きつつ、神の言に応答することの正しい公同的意味を指し示しているのです。

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