36-3「どうしたら正しく理解することができるか?」54

ホーム聖書通読ガイド信仰雑話3

(マルティン・ハイデッガー(1889-1976年)によって、
「現象学的解釈はーー存在者の存在の構造の規定である」という定義が、「文献解釈」に応用されるとき、
◉「その著者からまったく離れ客観的存在者」となって独立した文献の「それ自身をそのもの自身において示すところのもの」の「解釈」が、目標となることを教えられました。
「同一文献」を対象とし、「同一文献」の上に立ちながら、その「文献」の背後に立つ、
◉「著者」の方向への解釈と、
◉「文献」そのものの「存在」の方向への解釈と、まったく相反する二つの方向への解釈が、成立することとなったのです。
これが人類誕生以来、求め続けてきてようやくたどり着いた現代の「文献解釈学」です。
◉それに基づいて、聖書をみます。)

(54)旧約聖書第二区分

⑵「神の評価」と「人の評価」との致命的な乖離ーー「選民実践時代」

旧約聖書の第一区分の
◉「選民育成時代」では、選民の選びの根拠が、イスラエルの価値によらず、ひたすら「選び主」の完全な自由に基づくことが強調されています。

そこでは、モーセを指導者とする出エジプトの出来事をも、あくまでも、モーセという巨人をではなく、
◉神の「強い手」を仰がせる出来事として記述し、その強調は、もっぱら「他力」面、ひいては「賜物」におかれています。

ところが、この第二段階は、指導者も交替させられていると同時に、
◉「足の裏で踏む所」という表現によって代表されるように、その強調は、むしろ主体的な「自力」面、ひいては「課題」におかれています(ヨシュア1:3、3:13その他)。

【参考】
「あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。」(ヨシュア記 1:3)

「全地の主なる神の箱をかく祭司たちの足の裏が、ヨルダンの水の中に踏みとどまる時、ヨルダンの水は流れをせきとめられ、上から流れくだる水はとどまって、うず高くなるであろう」。」(ヨシュア記 3:13)

この時代が、選民育成時代につづいて、それとの区別において、
◉「選民実践時代」とよばれます。

この時代は、あきらかに前時代からの惰性的移行とはみられず、あらゆる点で「深化」されています。

第一区分で取りあげた賜物(他力面)としての選びの「無条件性」も、この実践時代になると、それが
◉「無条件的かつ条件的」な選びというように、そのことの緊張的理解が求められています。

ところで、選びの、そのような「緊張的理解」を支えるものは、
◉「主に対する畏れ」です。

この「畏れ」は、いうまでもなく、「慣れ」とか「甘え」と共存することはできません。

しかし在るがままの人間は
◉「緊張」に耐えられません。

この時代は、「神の評価」と「人の評価」との、致命的な乖離を、「選び主」と「選ばれた者」との間の密接な関係を介してあばき出し、
◉「在るがままの選民」が、いかに
◉「在るべき選民」から隔絶しているかを露呈しています。

その顕著な場合は、サムエル記の壮麗な絵巻物において提示されたサウル王とダビデ王との対照像です。

両者は共に、人間評価からすれば、完璧なエリートであり、両者とも王として選定され、無比なチャンスをほしいままにすることのできる位置にいながら、
◉「神を畏れず・人を恐れた王サウル」は結局、神に棄てられ
◉「神を畏れ・人を恐れなかった王ダビデ」は神の祝福にあずかったという人物描写を通し、神の選びは「無条件かつ条件的」であるとし、その秘義は、
◉「神に対する畏れ」にありとしています。

「わたし(主)が見るところは人とは異なる。
人は外の顔かたちを見、主は心をみる」(サムエル上16:7)
とは、いわば、
◉「人的評価」との質的断絶性においてさし示された
◉「神的評価」であり、これはさらにイザヤ書にその深化徹底をみることができます。

それは、
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主はいわれる。
天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:8-9)
という言葉であり、これによっても、「選民育成時代」(第一区分)に強調された創造主と被造物との
◉「質的断絶」が、この実践時代には、さらに「神的評価」と「人的評価」の
◉「質的隔絶性」として深められています。

それだけではありません。

◉「神の愛」と
◉「人の愛」の質的隔絶性をさし示させられているのがホセア書です。

そこに露呈されているのは、主が背信のイスラエルに示した、文字どおり奇想天外な特殊愛ですが、それは、

「わたし(主)の心は、わたしのうちに変わり、わたしのあわれみはことごとくもえ起っている。
わたしはわたしの激しい怒りをあらわさない。
わたしは再びエフライムを滅ぼさない」
とのべられ、その動機については、
「わたしは神であって、人ではなく、あなたのうちにいる聖なる者だからである。
わたしは滅ばすために臨むことをしない」(ホセア11:8-9)

としるされているとおりです。

だが、ホセアのこのような特殊愛は、そのまま単独に受け取られれば、
◉信仰的甘えへの傾斜をチェックすることができなくなります。

ホセアの主張に鋭く挑戦するのはアモスの
◉「選び主の特殊愛こそ、選民は他民族より、より厳しく審かれる根拠である」(アモス3:2-8)という獅子吼です。

「甘えによる不満」は、すね、ひがみ、ひねくれ、などの屈折した感情を生みますが、それを預言者的に誇張表現(カリカチュア)したのが、小預言者中のヨナ書です。

自己の面目が立たないといって神の前にすねたり、ふてくされたり、居直ったりするヨナの姿は、そのまま
◉選民的特権意識のはらむ醜さ、卑しさを忌憚なく暴露しています(特に3-4章)。

【参考】ヨナ書3-4

「時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、
「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。
そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。
ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。
ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。
そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。
このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。
また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、
「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。
物を食い、水を飲んではならない。
人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。
あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。
だれがそれを知るだろう」。
神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。
ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、 主に祈って言った、
「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。
それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。
なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。
それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。
わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。
主は言われた、
「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。
そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。
時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。
ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。
やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、
「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。
しかし神はヨナに言われた、
「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。
ヨナは言った、
「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。
主は言われた、
「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。」(ヨナ書 3:1-4:11)

預言者ヨナは、俗悪をもって知られる町ニベネに遣わされましたが、そこでの宣教の効果のないことをあらかじめ見きわめて、逃亡しました。

大海に投げ出されたヨナは、あわれみによって、三日三晩を魚の腹の中で過ごさせられて助かります。

悔い改めて再び、ニネベで宣教した結果、不思議にも彼らは悔い改めたのです。

それは主には喜ばしいことであるのに、ヨナは喜べません。

彼の不快は激しい怒りにまでエスカレートしてしまいます。

◉「わたしにとっては、生きるよりも死ぬほうがましだ」
と、主の前に「すねる」ヨナの姿こそ、まさにカリカチュアです。

こうして、ヨナ書は、最後に、
「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(ヨナ3:10-11)
と訴える主の言葉を通し、
◉「選び主の評価」と、
◉「選民の評価」の致命的乖離をあばき出しています。

◉「選民実践時代」は、その構想からみると、前預言者(ヨシュア記、サムエル記、列王記、士師記)と、後預言者(三大預言者および十二小預言者)からなっていますが、三大預言者ーー
◉イザヤ書、エレミヤ書およびエゼキエル書の配列も、やはり「選び主」と「選ばれた者」との評価の致命的乖離を浮かび上がらせます。

最初のイザヤ書はいずれかというと、
◉「選び主」のイスラエルの民に対する「特殊愛」を強調しています。

そこでは、この世の歴史の支配者クロス(紀元前600年頃 – 紀元前529年、アケメネス朝ペルシアの初代国王)さえ、イスラエルのためにその役目を与えられます。

「わたしは主、あなたの名(クロス)を呼んだイスラエルの神であることをあなたに知らせよう。
わがしもベヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ」(イザヤ書45:1以下)

としるされています。

実にそこに仰がれる主は、イスラエルに対しては、

「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使いをもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」(イザヤ書63:9)。

ところが、つづくエレミヤ書は、イザヤ書に対立的に「特殊愛」を否定するかのように
◉「普遍愛」を強調します。

そこでは、イスラエルといえども、主の手の中の粘土にすぎないのです。

粘土そのものには何らの特権はありません。

ろくろで仕事をする人の手の中で仕損じた時、彼はその粘土をつぶして、「自分の意のままに、それをもってほかの器を造る」自由があります。

そして主の言葉は、

「イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。ーー
あなたがたはわたしの手のうちにある」(エレミヤ書16:1以下)

というので、そこでは、特殊に拘束されない
◉創造主の自由がさし示されています。

イスラエルの悩みの日に共に悩まれた主に代わって、そこでは、

「あなたの痛みはいえず、あなたの傷は重い。
あなたの訴えを支持する者はなく、あなたの傷をつつむ薬はなく、あなたをいやすものもない。
あなたの愛する者は皆あなたを忘れて、あなたの事を心に留めない」(エレミヤ書30:12-14)

と、
◉突き放す主をさし示しています。

この両書の相反的緊張こそ、電気の陰と陽の両極のように活かされなければならないのです。

イザヤ書の語る
◉「特殊愛」は、それとして、他方エレミヤ書の
◉「普遍愛」は、それとして、
◉両極的に徹底されるべきであって、両者はどちらも割り引きされてはならないのです。

しかも一は他なくしては、それ自身を貫きえません。

エレミヤ書なしに、イザヤ書のみが強調されれば、そこには
◉特権意識的甘えがはびこります。

イザヤ書の「特殊愛」を欠いたエレミヤ書の「普遍愛」は、結果として、
◉ヒューマニズムによってイデオロギー化されてしまうでしょう。

この両極の相剋が、そのまま、第三の書であるエゼキエル書の証を、次元的にゆたかなものとして浮かび上がらせる起動力をなしています。

エゼキエル書は、イザヤ書の「特殊愛」そのものからも、またエレミヤ書の「普遍愛」そのものからも、直接には出てくるはずのないメッセージを語らされているからです。

「特殊愛」と「普遍愛」の相剋によってのみさし示される
◉「聖なる名のため」の救拯論です。

選び主が、選んだ行為は、創造主が、質的に無限に低い被造者と、特殊な関係(契約)を結んだことであり、それは、絶対自由である主が、あえて自らを相対者によって
◉「拘束」される者となったことを意味します。

それは譬えていえば、独立した人間相互の間に成立する婚姻関係にもなぞらえられるように、二者が「同一の名」を担うことでもあります。

したがって「選び主」に対する選民の背信は、選び主と共有する「聖なる名」をけがす行為に他ならないのです。

「人の子よ、昔、イスラエルの家が、自分の国に住んだとき、彼らはおのれのおこないとわざとをもって、これを汚した」
といわれ、
「彼らがその行くところの国々へ行ったとき、わが聖なる名を汚した。
これは人々が彼らについて、
『これは主の民であるが、その国から出た者である』
と言ったからである。
しかしわたしはイスラエルの家が、その行くところの諸国民の中で汚したわが聖なる名を惜しんだ」(エゼキエル書36:16以下)

といわれています。

背信のイスラエルの回復の根拠は、もはやイスラエルの側にはないのです。

聖なる主は、背信のイスラエルに向かって、もはや
◉「イスラエルのために」とはいえません。

そこでは、イザヤ書の「特殊愛」は、ひとたび否定されています。

そこでは、
◉直結が否定され、選び主と選民との致命的な「乖離」が露呈されています。

したがって「選び主」の真実は、「イスラエルのため」という形をとりえないのです。

ただそれは「主ご自身の聖なる名」のためのみなのです。

その点を強調するかのように、つづいていわれています。

「それゆえ、あなたはイスラエルの家に言え、主なる神はこう言われる、イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。
それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。
わたしは諸国民の中で汚されたもの、すなわち、あなたがたが彼らの中で汚した、わが大いなる名の聖なることを示す。
わたしがあなたがたによって、彼らの目の前に、わたしの聖なることを示す時、諸国民はわたしが主であることを悟ると、主なる神はいわれる」(エゼキエル書36:22以下)

と。

「選び主」の「聖なること」とは、主が主であることであって、それ自体が◉「目的」であって、それは絶対に
◉「手段」とはなりえないことを意味します。

したがって選び主の真実も、不可避的に、
◉選民の不真実とその乖離とを「暴露」することによってしかさし示されないといえます。

ところが、この時代にそびえて立つのは、「主の聖なる名」の神学のみではありません。

むしろこれと相剋するかのようにそびえているのは、イザヤ書のいわゆる
◉「苦難の僕」の独白です(イザヤ書42:1-4、49:1-16、50:4-9、52:13-53:12等)。

【参考】「苦難の僕」
「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。
わたしはわが霊を彼に与えた。
彼はもろもろの国びとに道をしめす。
彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、 また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。
彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。
海沿いの国々はその教を待ち望む。」(イザヤ書 42:1-4)

「海沿いの国々よ、わたしに聞け。
遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。
主はわたしを生れ出た時から召し、母の胎を出た時からわが名を語り告げられた。
主はわが口を鋭利なつるぎとなし、わたしをみ手の陰にかくし、とぎすました矢となして、箙にわたしを隠された。
また、わたしに言われた、
「あなたはわがしもべ、わが栄光をあらわすべきイスラエルである」と。
しかし、わたしは言った、
「わたしはいたずらに働き、益なく、むなしく力を費した。
しかもなお、まことにわが正しきは主と共にあり、わが報いはわが神と共にある」と。
ヤコブをおのれに帰らせ、イスラエルをおのれのもとに集めるために、わたしを腹の中からつくってそのしもべとされた主は言われる。(わたしは主の前に尊ばれ、わが神はわが力となられた)
主は言われる、
「あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。
わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」と。
イスラエルのあがない主、イスラエルの聖者なる主は、人に侮られる者、民に忌みきらわれる者、つかさたちのしもべにむかってこう言われる、
「もろもろの王は見て、立ちあがり、もろもろの君は立って、拝する。
これは真実なる主、イスラエルの聖者が、あなたを選ばれたゆえである」。
主はこう言われる、
「わたしは恵みの時に、あなたに答え、救の日にあなたを助けた。
わたしはあなたを守り、あなたを与えて民の契約とし、国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。
わたしは捕えられた人に『出よ』と言い、暗きにおる者に『あらわれよ』と言う。
彼らは道すがら食べることができ、すべての裸の山にも牧草を得る。
彼らは飢えることがなく、かわくこともない。
また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。
彼らをあわれむ者が彼らを導き、泉のほとりに彼らを導かれるからだ。
わたしは、わがもろもろの山を道とし、わが大路を高くする。
見よ、人々は遠くから来る。
見よ、人々は北から西から、またスエネの地から来る」。
天よ、歌え、地よ、喜べ。
もろもろの山よ、声を放って歌え。
主はその民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。
しかしシオンは言った、
「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。
「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。
見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。
あなたの石がきは常にわが前にある。」(イザヤ書 49:1-16)

「主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。
主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは、そむくことをせず、退くことをしなかった。
わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。
しかし主なる神はわたしを助けられる。
それゆえ、わたしは恥じることがなかった。
それゆえ、わたしは顔を火打石のようにした。
わたしは決してはずかしめられないことを知る。
わたしを義とする者が近くおられる。
だれがわたしと争うだろうか、われわれは共に立とう。
わたしのあだはだれか、わたしの所へ近くこさせよ。
見よ、主なる神はわたしを助けられる。
だれがわたしを罪に定めるだろうか。
見よ、彼らは皆衣のようにふるび、しみのために食いつくされる。」(イザヤ書 50:4-9)

「見よ、わがしもべは栄える。
彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。
多くの人が彼に驚いたように-彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである- 彼は多くの国民を驚かす。
王たちは彼のゆえに口をつむぐ。
それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。」(イザヤ書 52:13-15)

「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。
主の腕は、だれにあらわれたか。
彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」(イザヤ書 53:1-12)

この「僕」とは何をさすか、ということで多くの議論がなされていますが、聖書全体の救拯史的展望からみるとき、
◉「在るべき真のイスラエル」と解釈されるのが妥当でしょう。

ただこの項でとくに指摘したいのは、イザヤ書が、この「人の罪を負う」者としての「真のイスラエル」を語ることによって、いよいよ
◉「在るがままのイスラエル」が、
◉「在るべきイスラエル」との致命的な
◉「乖離」を暴露されるという一事です。

この「苦難の僕」の独白の数行を下記に再掲します(イザヤ書53章)。
「だれがわれわれの聞いたことを信じえたか。
主の腕は、だれにあらわれたか。
彼は主の前に若木のように、
かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病いを知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。
われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病いを負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずからこらしめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれ傷によって、
われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。ーー
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に、
物を分かち取らせる。ーー
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした」。

要するにこの時代は、
「わたし(神)が見るところは人とは異なる。
人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル上16:6-7)、
あるいは、
「神の思いは人の思いとは異なり、神の道は、人の道とは異なっている。
天が地よりも高いように」(イザヤ55:8-9)
という志向の頂点に、
「エサウはヤコブの兄ではないか。
しかしわたし(選び主)はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」
という一見傍若無人な宣言をーー預言者の最後のマラキ書に語らせることによってーーおくことによって、人間的常識や倫理的評価をくつがえすような、神的評価を仰がせています。

それだけではありません。

このマラキ書においては、
◉選び主の「特殊愛」と、
◉選民の求める愛との致命的な「くいちがい」が暴露されています。

それは、マラキ書の冒頭から、選び主と選ばれた民との「対論」の形で導き出されています。

「マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉の託宣」につづいてすぐ、
「主は言われる、
『わたしはあなたがたを愛した』と。
ところがあなたがたは言う、
『あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか』。
主は言われる、
『エサウはヤコブの兄ではないか。
しかしわたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』。ーー」(マラキ書1:1-3)。

このような「くいちがい」はなお、
◉「われわれはどんなふうにあなたの名を侮ったか」
◉「われわれはどんなふうに、それを汚したか」
◉「これはなんと煩わしい事か」
◉「われわれはどんなふうに、彼を煩わしたか」
◉「どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか」
◉「われわれはあなたに逆らって、どんな事を言ったか」
という、イスラエルの側からの具体的反論としてのべられています。

このように克明な反復的叙述は、いったい何を意味するのでしょうか。

それはいうまでもなく、選民的特権意識によって培養された「慣れ」の恐ろしさをあばくものです。

◉特権意識の内実は、「恵みに対する慣れ」です。

この「恵みに対する慣れ」は、恵みに対する感謝としての感動をうばい去ります。

恵みに対して不感症となります。

そこには、もはや、選びの何たるかを認識する能力も失われてしまっています。

「選び」が、
◉選ばれた者の価値によらず、ただ
◉選び主の「自由な恩寵」によること、したがって、選びは
◉「無条件的選び」であるがゆえに、選ばれた者には、
◉マイナスの者がプラスとして扱われていることに対する驚きしかありえないことが、全く忘れられてしまっているのです。

こうして、マラキ書は神的評価と人的評価の乖離、そして、選民的自己投映の根拠が、その致命的な
◉「負債感の欠如」にあることを示そうとしたのです。

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