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結 文 (二十一章)2
⁋第一の点からみるに
・「主よ知りたまわぬ所なし、わが汝を愛する事は、 汝識りたまう」
と答えたペテロに対し、イエスは
「わが羊をやしなえ。誠に誠に、なんじに告ぐ、なんじ若かりし時は自ら帯して欲する処を歩めり、されど老いては手を伸べて他の人に帯せられ、汝の欲せぬ処に連れゆかれん」
といい給った。十字架の主を識ることが深くなれば深くなる程、以前は 自由に振舞い、自己の好む途を歩んでいた我が、いつか見えざる他者の見えざる手に束縛されて、その黙して予想だにせざりし方へと引き往かれる。これが「真に知る」ということであり・其の献身である。これは先在のロゴスの絶大なる自己否定に由てのみ・その信仰者に可能 とされる自己否定・即ち献身である。
⁋第二の点は・「我に従え」といわれたペテロが、側に立つ他の弟子を見て、
「主よ・この人は . 如何に」
と問うた言にみられる。主に献身するという事は覚悟している——然し我のみが独りでなくてよかろう、いったい我が隣の此の人は、彼の人は何うなのだろうという、横への関心である。然しこれに対する主の答はきびしく、
「よしや我、かれが我の来るまで留まるを欲すとも、汝になにの関係 (かかわり) あらんや、汝は我に従え」
という誡(いましめ)である。献身が献身であるのは、それが厳しい迄に個性的であり、単独的である事においてのみである。「彼の如く我も」、「他と共に我も」という意識から脱しない間は、それは真の献身とはいえない。 献身とは常に「汝は」という単数において指名され、単独に個別的にこれに応答する処以外にない。献身という途のきびしさは、それが限りなく個性的である為であるといわれる。以上の如くこのヨハネ伝の結文は、ヨハネ伝第二十章までが語る神の愛に対する応答として「全き献身」を教えている。
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