第一章 第四節 ヨハネ伝概説11

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第一 受肉者の証言 (一章十九節ー六章七十一節)3

(3) 神国との連関 (三章一節―十五節)

⁋この記事は旧約の律法を熟知するパリサイ人ニコデモ と受肉者イエスとの対話である。

「まことに誠に、汝に告ぐ、人あらたに生れずば、神の国を見ること能わず」

というイエスの言が、 この対話をその中心主題に 押し進めるきっかけとなる。神の国とは共観福音書が主題とする、イエスの宣教の目的であり、その内容である。神の国とは人の国に対立し、これとは非連続的な秩序である。パリサイ人や律法主義者の致命的誤謬は、神の国入国の条件が律法の遵守によって直接的連続的に獲得されるとする処にある。この致命的誤解にこのイエスの言が単刀直入的に語りかけられた。「人あらたに生れずば」 とは 「新生」であり、凡ゆる人間の連続性と直接性とを否定するのがこの「新生」である。この新生を更に分析したのが

「人は水と霊とによりて生れずば、神の国に入ること能わず」

という主の言である(五節)。ここでこの言の隠されたる意味を理解しなければならない。即ち「水」とは悔改めのバプテスマであり、「霊」とは人がそれに由てバプテスマを受けて、「キリストの体なる教会」に加えられるものである(コリント前書十二草十三節)。また新たに生れるとは、既に教会の教となっていた「新生」である。
⁋この教会の礼奠と教会の教とが、 神の国との連関において語られているということ、加之 「教会」の礼奠とその教とに与からざれば神の国は見ることも、これに入ることも出来ないものとされている事において、明かに前述の如く神の国と教会との本質的連関が象徴的な言で叙べられているのである。換言すれば共観福音書に述べられている神の国は、本書によれば「教会 に於て」・「教会に由て」・「教会を通して」でなければこれに入ることが出来ないのは勿論、これを見ることさえ不可能であるというのである。このニコデモとイエスとの対話を読む者は、 そこに隠されているこの意味をその背後に読み採らねばならない。
⁋この会話で更に注目すべきことは、ニコデモに対し

「なんじはイスラエルの師にして猶(な)おかかる事どもを知らぬか。誠にまことに汝に告ぐ、我ら知ることを語り、また見しことを証す。 然るに汝らその証を受けず」

という主の言の中で、イエスが「我」という第一人称単数の代名詞を以て語り給うていたのに、突如「我ら」と複数を用い給うたことである。これは前述の如く著者の筆のすべりではなく、明かな意図を以て表現されたものであることを知らねばならない。即ちそれこそ水と霊とによるバプテスマを行う主体であり、新生の教を説く主体である教会が、いわば「イエスの肩からのぞいて、我らと云っている」のである。しかしてここに隠されている教会は、それが依て立つ十字架に就て

「モーセ荒野にて蛇を挙げしごとく、人の子も また必ず挙げらるべし。すべて信ずる者の彼によりて永遠の生命を得んためなり」

と語っている。これは旧約の民数紀略の引照で(二十一章九節)、 自己を超えて十字架を仰ぐ処にのみ、この 「新生」が具現することを告げる言である。

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第一章福音書>第四節 ヨハネ伝概説11終わり、次は第四節 ヨハネ伝概説12

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