第一章 第四節 ヨハネ伝概説26

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第 四 受肉者の磔殺 (十八章—十九章)

⁋受肉者の弟子に対する決別の言に

「なんじら世にありては患難あり、然れど雄々しかれ。我すでに世に勝てり」

といわれている如く(十六章三十三節)、彼はその磔殺に際しても、「既に世に勝てる者」として描かれている。イエスを捕縛せん為「ナザレのイエスを」と求めるユダの群 に対し、「我はそれなり」とイエスが名乗り給うた時、その独子の威容に打たれて「かれら後退りして地に倒れたり」と記されている (十八第六節)。また世的権威の具現者の象徴として立つピラトは、天的権威の具現者なる受肉者イエスとの鋭い対照において映し出されている。その対照は先ず受肉者の

「われの王たることは汝の云えるごとし。我は之がために生れ、之がために世に来れり。即ち真理につきて証せん為なり。凡て真理に属する者は我が声をきく」

と宣言 し給い、これに対して、ピラトが「真理とは何ぞ」という問を発している記事に始まっている。実に神の独子なるロゴスの受肉者は「真理につきて証せん為」にこの世に来り給うた者であり、彼は真理そのものであるから、凡て真理に属する者はこれにきく。然も彼は父より万物を委ねられ(三章三十五節)、全被造物に対して審判権を委ねられた者である (五章二十二節)。その意味で、受肉者においては「権威」と「真理」とは一元的である。
⁋他方ピラトはこの世の権威を僭称(せんしょう)する者でありながら、真理に対しては門外漢であり、彼は真理の外に傍観者として立ち、「真理とは何ぞ」と問う者である。真理を伴わぬ権威の具現者こそこのビラトであり、そこにこの世の権威の「擬装性」(虚構性)が暴露されている。従って生殺与奪権をほしいままにし得ると任ずる世的権威の具現者ビラトの

「我に語らぬか、我に汝を赦す権威あり、また十字架につくる権威あるを知らぬか」

という挑戦に対して、受肉者の答は

「なんじ上より賜わらずば、我に対して何の権威もなし。この故に我を汝に付しし者の罪は更に大いなり」

と記されている。このイエス審問の情景を通じて、ピラトはその権威の擬装性を立証するかの如く、躊躇と不決断と妥協を以て特徴ずけられている。受肉者の姿はこれに反して、世的権威の偽装性の剥奪者として示されている。

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