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第 三 受肉者の決別 (十三章ー十七章)4
(2)訓慰による遺訓 (十四章)
⁋イエスは御自身がこの世を去り給うことによって、第一に起ることは、弟子たちにおける「孤独感」に由る失望と落胆とであることを予知し給うた。従って続いて使徒行伝において述べられている「聖霊降臨」が、この部分においては「助け主」として——訓慰を与え給う者として先行的に教えられている。これが為にここに繰り返えして「なんじら心を騒がすな」といい(一節、二十七節)、しかして
「われ平安を汝らに遺す、わが平安を汝に与う。わが与うるは世の与うる如くならず」
といわれている。
⁋この訓慰による遺訓が終えると、
「起きよ。いざここを去るべし」
と(三十一節)、場所が変えられ、次の遺訓の場所に移されているのである。
(3)約束による遺訓(十五章ー十六章)
⁋この部分は前の部分からの連続せる遺訓ではあるが、然し場所の転移が示されている如く、その遺訓の主題も自ら次に移行している。先ず「葡萄の樹」の象徴的表現を以てする教によって、イエスと父との関係、イエスと弟子らとの関係、弟子ら相互の関係が、
「我は葡萄の樹・我が父は農夫なり」
といい、
「我は葡萄の樹・なんじらは技なり」
という言によって教えられている。しかして
「此等の事を命ずるは・汝らの互に相愛 せん為なり」
という言によって、全体的にしめくくられている。
⁋斯くして主題とせられている「聖霊」は、
「来らんとき、我につきて証せん」
といわれて、 イエスが真に弟子たちに知られるのは、この聖霊の証しに由てのみであることが教えられている。また
「かれ来らんとき、世をして罪につき・義につき・審判につきて・過てるを認めしめん」(16:8-11)
と、聖霊の来り給う時に初めて、世がイエスに対して採った態度の如何なりしものかを示されるものとしている。しかして彼来り給う時、弟子らの「鈍さと愚かさ」とが開かれて、彼らを「導きて真理をことごとく悟らしめ」るであろうとは、その聖霊の業の綜括点である。
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