第一章 第四節 ヨハネ伝概説15

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第一 受肉者の証言 (一章十九節ー六章七十一節)6

(7) 父なる神との連関 (五章ー六章)2

⁋然しそれは皮肉にも、その彼らが受肉者に対する反証なりとする聖書こそ、受肉者を証言するものであるという告知なのである。神の独子なるロゴスの受肉者のみが、宇宙的証言の唯一の焦点だからである。それ故このユダヤ人の誤謬を指摘し、訴える者を、他に待つ必要はな い。然れば主は彼らに、

「訴うる者一人あり、汝らが頼とするモーセなり。 若しモーセを信ぜしならば、我を信ぜしならん、彼は我につきて録したればなり」

と宣言し給うた。被証言者なる受肉者は、先在のロゴスなるが故に、モーセもまた彼に就いて録したのである。然れば旧約型書を解く鑰(かぎ)は唯だ一つ・その被証言者キリストあるのみである。これはユダヤ人らの夢想だにせざりしことである。旧約聖書はこれが辞義通りに読まれる時、それはユダヤ人の教の書であり、ユダヤ会堂の正典でしかない。それをこのヨハネ伝は「キリスト証言」の書としてみているのである。そこには全く新たな光を以てみられた旧約聖書の意義が示されている。「教会は旧約聖書をその本来的意義に反して、それ自身の正典とした」——故アドルフ・ハルナックの 言——とはこの事をいうのである。
⁋この記事に続いて、イエスが五つのパンと二つの魚を以て五千人を養い給うた記事がおかれている(六章一節以下)。この奇跡の記事は、朽つる糧と朽ちざる永遠の糧とを対照せしめ、以て自然に「聖餐」の意義の解明へと移行している。主の晩餐の記事は、共観福音書においては凡て最後の過越しに、即ち主が十字架にかけられ給う前夜に位置付けられているのに反して、ヨハネ伝はこれを主の宣教の半頃に持ち出している。これも、矢張り地上のイエスに「潜在」せる教会の理念からのみ解明される叙述法である。受肉者イエスは自ら

「神のパンは天より降りて生命を世に与うるものなり」

といい(六章三十三節)、その意味を

「それわが天より降りしは我が意をなさん為にあらず、我を遣わし給いし者の御意をなさん為なり。我を遣わし給いし者の御意は、すべて我に賜いし者を、我その一つをも失わずして終の日に甦えらする是なり。わが父の御意は、すべて子を見て信ずる者の永遠の生命を得る是なり」

と、解明し給うた(六章三十八節以下)。
⁋かくこの部分においては、父なる神の聖旨とその独子の意志との「全き一致」において、この両者の関係が開示されている。その父なる神の聖旨とは世に生命を与える事である(三十三節)。受肉者は自ら神のパンとして世に生命を与える事において神の独子たるを証しするのである。前者が父なる神からの受肉者に対する証言であるのに対して、後者はむしろ独子なる受肉者からの神に対する証言という事が適当である。即ちこれを少しく分析的に述べると、受肉者は「我が意をなさん為にあらず」という言において、 彼の服従の意志を示し、

「我を遣わし給いし者の御意をなさん為なり」

という言において、父の意志への独子の「自己限定」を示すからである。この独子が自己限定し給いし「父の意志」こそ受肉者の自己犠牲の十字架である。しかしてこの独子の贖罪の為の自己犠牲の意味の解明が、次の如き「聖餐」の意義となる。

「人の子の肉を食わず、その血を飲まずば、汝らに生命なし。わが肉をくらい、我が血をのむ者は永遠の生命をもつ、われ終の日にこれを甦えらすべし。夫れわが肉は真の食物、わが血は真の飲物なり。我が肉をくらい、我が血をのむ者は、我に居り、我もまた彼に居る。活ける父の、我をつかわし、我の父によりて活くるごとく、我をくろう者も我によりて活くべし。天より降りしパンは先祖たちが食いてなお死にし如きものにあらず。此のパンを食う者は永遠に活きん」

とは受肉者の全存在と全使命とを、実に「聖餐」の一語に綜括した教会的信仰告白である(六章五十三節以下)。
⁋然し主の弟子たちの多くの者さへ、 この言には堪えられなかった。

「弟子たちの中おおくの者これを聞きて云う、こは甚だしき言なるかな、誰かよく聴き得べき」

とはこの事に対する弟子らの反応であった。然もこの聖餐解明の記事の終には、重要な事に注意が喚起されている。

⁋「斯(ここ)において弟子たちのうち多くの者、かえり去りて、またイエスと共に歩まざりき」

という言が録されて居り、この時イエスがその十二弟子に向って、

「なんじらも去らんとするか」

と問い給うた。これに対してシモン・ペテロが彼らの代表として

「主よ、われら誰にゆかん、永遠の生命の言は汝にあり。又われらは信じかつ知る、なんじは神の聖者なり」

と答えている。吾人はここに明かに二つの事を学ばせられる。その一は・洗礼者ヨハネの「キリスト証言」をきいた弟子らは、その被証言者イエスの許に来つたのみでなく、彼ら自身がそのイエスが「神の聖者であり、生命の言そのもの」なる事を確かめ得たのであったという事である。その二は・ その証言の確認は、実に凡ゆる下からの不可解を超克せしめ、「信じ且つ知る」 という特殊な過程を経ることに由るという事実である。この「知」こそ「信」に由る飛躍に由て与えられたものである。

「こは甚(はなはだ)しき言なるかな、誰か能く聴き得べき」

とは、 自然的立場に立ち、理性的立場に立ちつづけんとする者の常に語り得る唯一の反応である。然し証言を聴き、その確かさの確認を得んとする者に対しては、この「信じ且つ知る」という飛躍あるのみである。

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第一章福音書>第四節 ヨハネ伝概説15終わり、次は第四節 ヨハネ伝概説16

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