第一章 第四節 ヨハネ伝概説14

ホーム渡辺・岡村著書新約聖書各巻概説>第一章福音書>第四節 ヨハネ伝概説

第一 受肉者の証言 (一章十九節ー六章七十一節)5

(7) 父なる神との連関 (五章ー六章)1

ベテスダの池の辺りでイエスが三十八年間病んだ人を医し給うたのが、安息日であったことからユダヤ人はイエスを責めた。これに対してイエスは

「わが父は今にいたるまで働き給う。 我もまた働くなり」

と答え給い、

「此に由りてユダヤ人いよいよイエスを殺さんと思う。これは安息日を破るのみならず、神を我が父といいて己れを神と等しき者になし給いし故なり」

と解説している(五章一節以下)。主のこの答は、神と等しき位置に在り給いし先在のロゴスとしての言であり、且つ「父なる神の独子」としての自己開示に他ならない。受肉者のその父に対する「独子」としての関係こそ、本書の証言の焦点であり、この部分よりようやく激化するユダヤ人との論争の焦点である。ここにイエスはもはや顕わに、父なる神の子としての自己を闡明(せんめい)し給うている。即ち独子の為す凡ての業は父なる神の業であり、父が死人を活し給う如く、その独子なる受肉者もまた死人を生かすといい、

「父は誰をも審き給わず、審判をさえみな子に委ね給えり」

と断言し給うた。
⁋ここに受肉者の位置が対人間的には、神のそれよりも直接的なものとして告知されている。 然も対人間的には神よりも直接的な独子の審判権が明示せられて、これにつづく記事もまた、独子のみが宇宙的証言の焦点として提示せられている(五章三十節以下)。 即ちこの部分には、ヨハネの証言が先ず指摘され、ヨハネの証言よりも更に大いなるものとして、独子の業も受肉者が神の独子たる事を証しし、

「また我をおくり給いし父も、我につきて証し給えり」

といわれ ている(五章三十七節)。 実に

「その独子を賜う程に世を愛し給う」

神の愛は、その独子を世に受肉せしめ給う事において、絶大なる自己限定をなし給うたという事であり、その絶大なる自己限定の結果は、前述せし如く、「その審判をさえみな子に委ね給う」たことであり、「その独子をおくり給いし父も」この受肉者について証しし給うという事である。ここに証言に対する本書の特殊な観方が表われ始めている(六章二十七節・八章十八節等)。 というのは、最後にユダヤ人に対して主は

「汝らは聖書に永遠の生命ありと思いて之を査(しら)ぶ、されどこの聖書は我につきて証するものなり」

と語り給うたと記している事においてもみられる(五章三十九節)。
⁋それは旧約聖書には——歷史的にいえば、このヨハネ伝の記された時には現形の旧約聖書が既に完成した——イエスの名が全く現われていないにも拘らず、それはそのまま「キリスト証言」であるという事である。 独子の父なる神は実に、「聖書を与え給いしことに於て自己を限定し」、以てこれをしてその独子なるイエス・キリストを証言せしめ給うたという事である。 即ち

「汝らは未だその御声を聞きし事なく、その御形を見し事なし。その御言は汝らの衷にとどまらず、その遣わし給いし者を信ぜぬに因りて知らるるなり」

という主の言によって明かな如く、イエスを責めるユダヤ人は、旧約聖書そのものこそ受肉者イエスに対する「反証」なりとする者である。

ーーーー

第一章福音書>第四節 ヨハネ伝概説14終わり、次は第四節 ヨハネ伝概説15

ホーム渡辺・岡村著書新約聖書各巻概説>第一章福音書>第四節 ヨハネ伝概説

 
 

コメントを残す

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう