第一章 第四節 ヨハネ伝概説13

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第一 受肉者の証言 (一章十九節ー六章七十一節)4

(6) 救拯時との連関 (四章全体)

⁋イエスとサマリヤの女との出遇いの記事は、全体的に、異邦人が福音にあずかるという、救拯の枠の拡大の時を指示するものである。サマリヤの女は、ここでは

「主よ、我なんじを預言者とみとむ。我らの先祖たちは此の山にて拝したるに、汝らは拝すべき処をエルサレムなりと云う」

と語っている言にも明示されている如く、伝統的宗教の過去的な枠を象徴する者として登場するといえる。それに対するイエスの答は

「女よ我が云うことを信ぜよ、此の山にもエルサレムにもあらで、汝ら父を拝する時きたるなり。汝らは知らぬ者を拝し、我らは知る者を拝す………されど真の礼拝者の、霊と真とをして父を拝する時きたらん、今すでに来れり」

と記されている(四章十九節以下)。サマリヤ人とは、普通モーセ五書のみを経典として信奉し、エルサレム神殿を中心とするユダヤ人に対して、ゲリジム山の神殿こそ真の神殿なりと自負した民である。この伝統的宗教の枠を象徴するサマリヤの女に向ってイエスはこの山とかエルサレムとか、この民族とかあの民族とかいう凡ゆる伝統的・民族的・ 場処的束縛なくして、神礼拝の行われる時の到来せるを告げ給ったのである。
⁋真の神礼拝の時とは霊と真とをもて父を拝する時で、それは正に教会時代の告知であり、神による上からの救拯史に対して下から投映された古い枠の脱落の時到来の告知である。「ユダヤ人とサマリヤ人とは交わりせぬ」間柄であるのに (九節)、イエスがこのサマリヤの女に「我に飲ませよ」と語りかけ給うたことが、既に救拯史の枠の拡大したこと即ち宇宙的救拯時の熱した事を象徴しているといえる。

「時に弟子たち帰りきたりて、女と語り給うを怪しみたれと」

と記され (二十七節)、弟子にまで投映している、 この伝統的民族的枠に対して注意が喚起されている。イエスのこの弟子らに対する「なんじら収穫時の来るには、なお四月ありと云わずや、我なんじらに告ぐ、目をあげて畑を見よ、はや黄ばみて収穫時になれり」という言も他ではない、伝統的時間ににぶってしまったこの弟子らをして、「はや黄んでいる救拯的熱時に対して注意を喚起せしめたものである。
⁋他方このサマリヤの女は

「その水瓶 (みずがめ)を遺(のこ)しおき、町にゆきて人々に」

イエスというメシヤの到来を証しした (二十八節)。その結果として多くのサマリヤ人はイエスを見出し信じたが、彼らは

「今われらの信ずるは、汝のかたる言によるにあらず、親しくききて、これは真に此の救主なりと知りたる故なり」

と告げたと記している。サマリヤ人はこの女の証言によって初めてイエスの許に来たのである。然るに

「今われらの信ずるは汝(サマリアの女)のかたる言によるにあらず」

といって、右の事を否定している。ここに本書の証言という事柄に対する観方の徹底が見られる証言者は、その証言の故に人をキリストにまでつれ行く。然もそれは、その人をしてキリストを信じた結果、媒介者なる証言者を否定させ、親しくキリストの言に由てのみ信仰が与えられたという告白に、至らしめるものでなければならないからである。
⁋次にこのサマリヤの女の記事につづいて、カナの王の近臣の子の痊しの記事がおかれている (四十六節以下)。この王の近臣は共観福音書にも共通の人物であるが、特にルカ伝に主が

「イスラエルの中にだに斯(かか)るあつき信仰は見しことなし」

といひ給うたと記されている事からも明かなように (七章九節)、 異邦人を代表する者である。 ヨハネ伝は彼がイエスの直接的治癒の御手を懇願せず、ただ

「かえれ、汝の子は生くるなり」

という主の「言」を信じて帰り、その奇跡が、この主の言と同時に結果したことを記している。然しこの「言と同時的」であったという事は、ヨハネ伝のみの附言である。この出来事の記事はこれに先き立つサマリヤの女の記事との連関においてみる時、異邦人さえも、神の「言の能力」を端的に仰いで、その恩恵に与かるという救拯史的枠の拡大の時の到来を指し示すものとして受け取る事が出来る。しかしてそこに「言」を信ずる信仰というものが、徐々に明かにせられてきている事が知られる。

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第一章福音書>第四節 ヨハネ伝概説13終わり、次は第四節 ヨハネ伝概説14

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