第一章 第四節 ヨハネ伝概説9

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第一 受肉者の証言 (一章十九節ー六章七十一節)1

⁋ロゴスの受肉者イエスは宇宙的証 (あかし) の焦点に立つ存在としてこの部分に紹介される。
しかしてその受肉者に対する証言は
(1) 旧約との連関 (一章全体)
(2) 時代との連関(二章全体)
(3) 神国との連関(三章一ー十五節)
(4) 世との連関(三章十六ー二十一節)
(5) 先駆者との連関(三章二十二―三十六節)
(6) 救拯時との連関(四章全体)
(7) 父なる神との連関(五章ー六章)
の七項において展開されている。以上は最後の六章のパンの奇跡につづく「聖餐」の解明に頂点を見出す上昇的段階を示している。即ちイエスが天よりの生命を与うるパンであるというその告知こそは、受肉者の自己犠牲の告知であり、全体はその自己犠牲に向って進み、その自己犠牲を暗示しつつ展開していることを見逃してはならない。

(1) 旧約との連関 (一章十九節ー五十一節)

バプテスマのヨハネはここに旧約の預言者の系列の最後の人として立ち、新時代を「視よ」と指さしている。彼は序文に明示された如く、光そのものではない。光に就て証しする者である。本書が極度に注意して証言者を被証言者から鋭く峻別していることは前述した如くである。 彼は「汝は誰なるか?」と問われた時、

「我はキリストにあらず、エリヤにも非ず」

ただ「主の道を直くせよと荒野に呼わる者の声」であると告白する (二十三節)。彼は「声」である。声とは「言」を表わす音に過ぎない。声とは従って形がなく、語られると直ぐ消えてしまうものである。彼は来るべき「言」なるイエス・キリストに 対しては、直ちに消えて失せる声に過ぎない。然し彼は旧約を代表した声であり、その証言である。彼の主イエスに対する証の顕著な言は

「視よ・これぞ世の罪を除く神の羔羊(こひつじ)」

という証言だからである(一章二十九節・三十六節)。
⁋「羔羊」とは、旧約的解釈によれば、人間の罪の処置としての血の犠牲を意味した。然し旧約の羔羊は人間が象徴として予備的に供えることを許された獣としての羔羊であった。その意味で旧約の羔羊は「下から備えられた羔羊」であり、従って「神の羔羊」ではなかった。この旧約の時代の最後に属し、然もその旧約の制約を認識せしめられた者の証言は、旧約の時代を背負いつつ、然もそれを超えた処を指さして「視よ」と、世の罪を除く神の羔羊なるイエスを指している。斯く証とは、それを超えた他者への指示である。即ちここにヨハネは、主イエスに 就いて

「わが後に来る人あり、我にまされり、我より前にありし故なりと云いしは、此の人なり」

と云った(三十節)。このヨハネの証において、極めて重要なことが示されている。彼は旧約時代の最後に立ち、その一切を代表する証し人として、ここに現われているが、然し彼の証そのものは、旧約聖書が辞義通りに示している全体から帰結せられたものではなかった。否・ それではあったが、それに対して彼は、上よりの「示し」を受けたのであった。彼が

「我もと彼を知らざりき。然れど我を遣わし、水にてバプテスマを施させ給うもの、我に告げて、汝御霊くだりて或る人の上に止まるを見ん。これぞ聖霊にてバブテスマを施す者なる、と云い給えり。われ之を見てその子たるを証せしなり」

と語ったのはこの事を意味している(三十一節以下)。
⁋この旧約書全体からの帰結と、上よりの示しとは、この「受肉せるロゴス」または「神の子」を、一人の贖罪者と見させた。ヨハネが彼に対して為した証の要約的一言は、

「視よこれぞ世の罪を除く神の羔羊」

という言であった(一章二十九節)。共観福音書においては、その三書何れにおいても主イエスの受難に関しては、その前半には全く記されず、ようやくその後半に至 って初めて記され、その贖罪的意義に就ては殆んど記されていない。然るにヨハネ伝では、イエスの出現の最初からこのヨハネの口を通してその受難と贖罪とが語られている。 この事は勿論本書の序文において示されている創造に依り、 またロゴスのそれに対する参与に由り、 神の自己限定としての犠牲に、 視られているともいえる。 殊にロゴスの 「受肉」 そのことが (一章十四節)、大いなる犠牲を示すものである(参考ピリピ二章六節以下)。この意味において、同じヨハネの名を冠せられている黙示録が、イエスを指して

「世の創の前から屠られ給いし神の羔羊」

と称んでいるのは(十三章八節・ペテ口前書一章二十節参考)、このロゴスの犠牲を、全く形の異った言を以て述べたものという事が出来る。
⁋このヨハネの証言につづいて、その弟子なるシモン・ペテロ及びその兄弟アンデレが登場するが、彼らはその師ヨハネの「視よ・これぞ神の羔羊」という証の言に、指さされた被証言者の許に行き、

「その留まりたもう所を見、此の日ともに留まれり、時は第十時頃なりき」

と記されている (三十九節)。 証言とは斯く、 その証言を聴く者をして、証言の対象そのものに到らしめ、そこに留まらしめることでなければならない。この留まった結果 「われらメシヤ(釈と・けばキリスト)に遇えり」と彼らは告白している。このメシヤとはいうまでもなく、旧約が未来に向って指し示してきた救い主の意である。ピリポ・ナタナエルも

「我らはモーセが律法に録ししところ、預言者たちが録しし所の者に遇あ・えり、ヨセフの子ナザレのイエスなり」

と語っている。終のナタナエルとイエスとの対話も、この旧約が約束したメ シヤであるナザレのイエス が、実は凡てを前以て視透し得る先在のロゴス の受肉者であることを、確認するものとして受けとられる。

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第一章福音書>第四節 ヨハネ伝概説9終わり、次は第四節 ヨハネ伝概説10

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