第一章 第四節 ヨハネ伝概説10

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第一 受肉者の証言 (一章十九節ー六章七十一節)2

(2)時代との連関 (二章) 

⁋ヨハネ伝はイエスの地上において為し給いし奇跡を「徴」(しるし)と呼んで、これを七つ採り上げているが、 これはその最初のものである(二章十一節)。然もヨハネ伝は他の福音書の如く直接的叙述法を以てせず、神学的象徴的叙述法を以てしているからこのカナの婚礼のそれも、そのつもりで解釈せらるべきだと思われる。婚礼で葡萄酒が尽きた時イエスの母が、「かれらに葡萄酒なし」と告げた。その時イエスは

「おんなよ、我と汝となにの関係あらんや、我が時は未だ来らず」

と答え給うた(二章四節)。 ヨハネ伝を通じてイエス は特殊な「時意識」において動いてい給う。その「時意識」(原語は一様ではないが)は、第二区分の終(十二章)に至って再び重要な展開をしているので、その折に詳述することにして、ここではこの記事の端的に指示する処を述べておくこととする。人を楽しませる婚礼の席での葡萄酒が尽きたということは、時代の欲求意識を示唆し、イエスの母マリアの「かれらに葡萄酒なし」という訴は、時代の欲求と期待を耳にする教会の立場を象徴している。
⁋時代の期待と欲求とを直接的に満たさんとする教会に対して、主は「をんなよ、我と汝となにの関係あらんや、我が時は未だ来らず」という否定的な答を与え給うた。教会は時代の欲求と期待の自己投映の場なってはならない。時代とは本質において人間の自己肯定を背負い、その欲求の満足せられんことの期待を反映するものだからである。その意味で時代とは、神に背反する「世の時」を象徴する。然るにイエスは「我が時」即ち「父の時」に生きて、父の許し給う「時」にその業を為し給う。即ちイエスは人間の欲求・時代の欲求を直接的に連続的に満し給わない。従って教会の態度は「何にて主の命ずる如くする」という「知らざる彼の時」 への俟望であるべきであり、下から可能なる凡てを尽して待つこと、即ち「水をかめに口まで満す」という俟望的在り方に生きなければならない。この俟望的在り方こそ、時代に対する教会の真のキリスト証言というべきである。
⁋さてこのカナの奇跡につづく「宮潔め」の記事は、時代の要求を直接的に満すことを拒否する者こそ、時代の病根を根源的に痊(いや) す者であることを語っている(二章十三節以下)。 ユダヤ人の過越の祭近きエルサレムの宮の中は牛・羊・鴿を売る者・両替する者を以て満たされていた。その宮の実情は、時代の我欲追求の場である。人間の欲求は神の宮をさえ自己の欲求充足の場とし、道具とし、手段とせずしては巳(や)まない。これに対してイエスは

「これらの物を此処より取れ去れ、わが父の家を商売 (あきない)の家とすな」

と弾劾し給うた(十六節)。 ここに弟子たちは「なんじの家をおもう熱心われを食わん」という預言の言を想起させられた(詩篇六十九篇九節)。 神の宮を、宮として潔めるその熱心は、反って神の宮なる受肉者を十字架に追い立てさせるということである。時代は自己の欲求と期待とを直接的に満さない対象は、容赦なく葬ってしまう。それを見破り給うロゴスの受肉者の言は

「なんじら此の宮をこぼて、われ三日の間(うち)に之を起さん」

と語っている。 宮とは旧約以来、神が人間と共に住み給うことの象徴であり、神がその「名」をおき給うと約束せられた処である (列王上八章二十九節)。神の独子としての受肉者こそは活ける「神の宮」である。時代の要求を直接的に満し給わぬ受肉者のみが、神の宮なるイエスを十字架に磔殺せずしては巳まぬ人間の衷なる病根を、根源的に 発し給う。時代に立つ教会はかくて、自己肯定に立つ時代の要求を直接満たさないが、時代の根源的問題の解決を与える十字架を指示する。

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第一章福音書>第四節 ヨハネ伝概説10終わり、次は第四節 ヨハネ伝概説11

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