第一章 第四節 ヨハネ伝概説8

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序  文 (一章一節—十八節)2

⁋創世記の指摘したあの神の言が語りかけられる前の宇宙が、「混沌」(カオス)として名状されていることが、ここに想起されねばならない。神のロゴスによって初めて宇宙の混沌即ち「カオス」が、秩序ある世界即ち「コスモス」となった事が、そこに示されている。箴言はこの事を人格的知慧の独白として、

「エホバいにしえ其の御わざをなしそめ給える前に…….永遠より元始より地の有らざりし前より我は立てられ……海にその限界 (かぎり)をたて、水をしてその岸をこえざらしめ、また地の基を定めたまえるとき、 我はその傍にありて創造者(つくりて) となり、日々に欣(よろこ)び、常にその前に楽しみ」

と語っている (八章二十二節以下)。
⁋宇宙の混沌に秩序を与えるロゴスとは、 暗黒を照す光そのものである。

「之(ロゴス) に生命 あり、この生命は人の光なりき。光は暗黒に照る」

と記されている(四節)。この光に対する暗黒として紹介されるのがこの「世」である。この書で「世」という時、ギリシヤ語の空間的に世を表わす「コスモス」を用いていることは前述した如くである。しかしてこの世が暗黒を以て象徴される理由は、次の言に由て明かにされている。

「もろもろの人をてらす真の光ありて世にきたれり。彼は世にあり、世は彼に由りて成りたるに、世は彼を知らざりき」(九節)。

知らざる・ 悟らざる世の姿が無知なるが故に、この無知こそ世の暗黒の原因である事を指摘している。従ってこの「無知」なる世の救は、神の全知なるロゴスの受肉者に由て齎(もた)らされるものでなけれ ばならない。この世の無知とは、自己の存在の根源に対する致命的な無知である。斯かる世の救の為に先在のロゴスが受肉のロゴスとなった。然し神と共に先在したロゴスが受肉するという事は、ロゴスの絶大なる自己否定に基く出来事である。従って主の十字架の自己犠牲も、この先在のロゴスの絶大なる自己否定という視野と地平とから視られなければならない。この受肉せし父の独子の栄光も、先在のロゴスの栄光であるから

「我らその栄光を見たり、実に父の独子の栄光にして恩恵(めぐみ)と真理とにて満てり」

といわれ、その独子の「めぐみとまこと」 こそ、旧約最高の啓示であるモーセの律法から、イエスの啓示を区別するものである。独子イエスの啓示が最高のしかして究極的のそれであるのは、彼が神と等しき先在のロゴスであり、従って彼のみが、

「父の懐裡(ふところ)にいます独子の神」

であるからである(十四節—十八節)。
⁋以上においてロゴスの受肉者イエスと、これを悟らざる世とが紹介されたが、この両者の中間に立つのが、第三の主役たる証人ヨハネである。本書は、証(あかし)ということに対して独特な位置と意義とを与え、比類なき明確さにおいてこれを分析する書である。本書に紹介されるヨハネは、共観福音書が記している洗礼者ヨハネであるよりも、むしろ旧約の「証言」を象微して立つ証言者ヨハネである。この証人ヨハネの序文における紹介において既に鋭い証(あかし)の分析が始められている。即ち彼に就ては「神より遣わされたる人いでたり、その名をヨハネという。この人は証の為に来れり、光につきて証をなし、また凡ての人の彼によりて信ぜん為なり」と記し、更に「彼は光にあらず、光に就きて証せん為に来れるなり」(六節以下)と附け加えて、その「証する人」としての彼の位置を「証される人」としての独子イエスから峻別して いる事によっても明かである。
⁋以上序文を概観したが、このロゴスの受肉に関する叙述で、最も注意すべき言は「言は肉体となりて我らの中に宿り給えり」という句である。ここに神の言と、人の歴史との結びつきの具現があり、「原歷史」なるロゴス・キリストに由て人間の歴史を解釈すべき鍵(かぎ)が与えられた事を示している。
⁋然しここで一つ見落されてはならないことがある。それはこのイエスが先ずユダヤ人の為に来ったということである。即ち「かれは己の国にきたりしに、己の民は之を受けざりき」といわれ(一章十一節)、イエスのユダヤ的メシヤたる関係が明かにされている。 この事は後に「羊の門」の喩えが述べられる時、一つの檻(おり)の中にいる彼自身の羊と、「此檻のものならぬ他の羊」とが分けられていることと関係をもっている (十章三節・十六節)

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第一章福音書>第四節 ヨハネ伝概説8終わり、次は第四節 ヨハネ伝概説9

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