第一章 第四節 ヨハネ伝概説19

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第 二 受肉者の対決 (七章ー十二章)4

(d)ギリシャ人の参謁 (さんえつ)(十二章二十節以下) 

⁋ラザロを甦えらせ給うた徴としての業を頂点として、受肉者の世一般に対する自己開示は終を告げ、第十三章以下は弟子に対する自己開示が始められる。然もこの世から弟子への大転向の境に立つのが、ギリシャ人参謁の記事である。 礼拝せんとて祭に上ったギリシヤ人が、ピリポに

「君よ、われらイエスに謁(まみ)えんことを願う」

と告げた事を以て受肉者は、その「父の時」の到来を悟り給うたからである(十二章二十三節)。カナの第一の奇跡の時以来数回繰り返えされた「我が時は未だ来らず」という、その時が、このギリシヤ人の登場によって熱時した——機が熟したというのである——原語はhora・kairos に非ず——然らばこのギリシャ人とは何であろうか。彼もまた光に来る群の象徴である。
⁋ギリシヤ人とはそのギリシヤ文化一般を以て知られている如く、知的な群の象徴であるが、ギリシヤ主義の特色はその対象的知にある。 それは人間の自我を基盤とするが故に、「下からの知」であり、自己拡大・自我拡充を以てその必然的本質としている。
⁋従って「上からのロゴス」なる受肉者とこのギリシャ人との出遇いは、「上からのロゴス」 への「下からの知」の対決を意味し、以って「自己犠牲のロゴス」に由る「自己拡充の知」の 暴露を意味する。 このギリシャ人がイエスに参謁を求めたという事は、「下からの知」が、それ自身自己において貫徹不可能なる事を自己暴露することの象徴である。然しこのギリシャ人の参謁に対して、イエスは「人の子の栄光を受くべき時きたれり」といい、

「一粒の麦・地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば多くの果を結ぶべし」

と、「自己犠牲の時」の到来を告知し給うた。自己肯定・自己拡充を本質とする「下からの知」は、そのまま「上からのロゴス」に直接連続する事は絶対できない。対象的知を以て「光にして生命」なるロゴスを把握する事は許されない。光にして生命なるロゴスを知るべき全き知は、ロゴス・キリストの自己犠牲に由てのみ与えられる。自己拡充的な下からの知の治癒は、自己犠牲のロゴスに由てしか与えられないからである。
⁋しかしてこの「受肉者の対決」の項は、

「我は光として世に来れり。すべて我を信ずる者の暗黒に居らざらん為なり………我を棄て、我が言を受けぬ者を審く者あり、わが語れる言こそ終結の日に之を審くなれ」

という、光への招きの言を以て結ばれている(十二章四十四節以下)。

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