第一章 第四節 ヨハネ伝概説17

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第 二 受肉者の対決 (七章ー十二章)2

(2) 光に来る群 (九章ー十二章)

⁋ユダヤ人によって暗黒き世即ち「光を退ける群」が象徴されたが、この部分にはつづいて、光なるロゴス・キリストに来る群が象徴的に描かれている。 即ち、盲人の治癒・羊の牧者・ラザロの甦り・ギリシヤ人の参謁等の記事を通して「光に来る 群」の凡ゆる類型が多角的に分析されている。

(a)盲人の治癒(九章)

⁋ユダヤ人との激論に続いて盲人(めしい) の治癒の記事が置かれているが、ここには世の暗黒から救われんことを求めて「光に来る群」が象徴されている。即ちユユダヤ人は自らの盲人たる事を否定し、以て光に来る事を拒む群の象徴であり、この記事の主題である盲人は、己が盲人たる事を知り、その暗さから救われん為に光に来る群を象徴している。 イエスが途往き給う時、生れながらの盲人に出遇い、弟子らが

「ラビこの人の盲目にて生れしは、誰の罪によるぞ・己のか・親のか」

と問うたのに対して——旧約のエゼキエル以来の考え方——答え給うたイエスの

「この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業の顕れん為なり。我を遣わし給いし者の業を我ら昼の間に為さざるべからず。夜きたらん、その時は誰も働くこと能わず。われ世にある間は世の光なり」

という言には、序文に録された光なるロゴスと暗黒き世の対照が貫かれている。世の暗さとは世の無知とその無知の原因なる罪を象徴するものであるが、ユダヤ人は、無知を無知として告白する事を拒む群の代表であり、この盲人は、無知を告白することに由て光なるロゴスに由て痊(いや)される群を代表する者である。即ちこの盲人の癒しの記事の解釈に対して鍵(かぎ)を提供する言か、 この記事の終に記されてい る。それは

「われ審判の為にこの世に来れり。見えぬ人は見え、見ゆる人は盲人とならん為なり」

というイエスの言にみられる(九章三十九節以下)。本書によれば神の独子は「人を審かん為に来らず」と明言し給うた(三章十七節)。 .
⁋本書のみに附加されている第八章の姦婬せる女の記事も、受肉者なる神の独子さえ人を審かぬという事を指し示す為のものである。然もこの部分では明かに

「我審判の為にこの世に来れり」

と宣言なし給うている(九章三十九節)。実に独子イエスは

「審判の為に世に来らず、然も審判の為に世に来つた」

のである。これは何れか一が誤で他が正しいのではなく、この矛盾が実は一として真理なのである。その審判は

「見えぬ人は見え、見ゆる人は盲人とならん為なり」

といわれている処に由て明かである。見えぬ人とはこの盲人であり、己が無知を無知として告白して光に来る群であり、見ゆる人とは、己が無知を無知として告白することを拒む、ユダヤ人であ り、光を退けて、光よりも暗黒を愛する群である。故に主は彼らに向って「もし盲目なりしならば、罪なかりしならん、然れど見ゆという汝らの罪はれ遺れり」といい給ったのである。

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第一章福音書>第四節 ヨハネ伝概説17終わり、次は第四節 ヨハネ伝概説18

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