第三章 預言書

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第三区分には、ヨハネ黙示録が一冊だけ含まれている。これは教会の未来を語る書物で、その意味において、「預言書」と呼ばるべきである。教会は、第一区分によってその「過去」における恩寵を、第二区分によってその「現在」における恩寵を学ばせられるが、この第三区分 によってその「未来」における恩寵を仰がせられるのである。
⁋黙示録の「黙示」とは「顕現」または「覆いを取り除く」という意味である。従ってキリスト証言たる正典の最後におかれた黙示録は、その栄光の主キリストの終末における顕現と、之に関連して起る出来事とを録した書物である。 本書冒頭の

「これイエス・キリストの黙示なり。即ち、かならず速かに起るべき事を、その僕どもに顕わさせんとて、神の彼に与えしものなるを、彼その使を僕ヨハネに遣わして示し給えるなり」

という言はこれを明示している(一章一節)。しかして本書は旧約聖書中の異象的預言をその形式としている。此の異象的預言の目的は本来、迫害のさなかに在る信仰者を励まし力づける為、神の統治の確かさとその正義の終末的勝利および被圧迫者の最後的救拯の確かさを告げることにある。従ってその特徴は必然的に異象を以てしその表現には象徴を以てするのが常でる。旧約のダニエル書及びゼカリヤ書の一部分とは(一章七節―二章十三節・五章一節—六章八節等)、ここにいう異象預言の代表的のものである。
⁋さてここで少しく象徴の本質とその解釈とに関して考察してみたい。抑(そ)も人間の最高の表現様式である言語というものは、各民族の生活伝統とその文化から生み出されたものである。従って言語は云わば「下から」生れたものである。故にこの言語が「上から」の啓示に関して語る道具とされる時、そこには必然的に、元来「盛り得られざる内容」を「盛り得ざる容器」に盛ったという困難と無理とが出来る。然しそれにも拘らず啓示表現の書なる聖書が、「下から」生れた言語を用いざるを得ないという事は、聖書はこの人間の言語を「象徴」として用いているという事を意味する。

「わが口はかしこきことをかたり、わが心はさときことを思わん。われ耳を喩言(たとえ)にかたぶけ、琴をならしてわが幽玄なる語をときあらわさん」

とは、この、 事を痛感したイスラエルの詩人の古典的告白である(詩篇四十九篇三・四節)。即ち絶対的なる神の言を聞く者も、之を他に表現するに当っては、人間的象徴を以てする他はない。この点から視れば聖書の一切の表現は「象徴的」であるといわねばならない。
⁋この象徴は然し、必ず象徴せられるものを伴っている。盛り得ざる容器としての言語は、必ず盛り得られざる内容を、それ自身伴っているのである。従って、この場合「象徴せられるもの」、または「盛り得られざるもの」は、「象徴するもの」または「盛り得ざる容器」そのものを媒介とし・手懸りとする事に由てのみ把握せられることを知らねばならない。故にこの象徴の把握者または解釈者は、「象徴せられたもの」または「盛り得られざるもの」を悟り得る「共感」を有つ者でなければならない。
⁋さて以上の事態から、象徴的幻(まぼろし)を以て表現された黙示録の解釈に於ける困難が理解される。それというのは、如何に象徴的に語られようとも、キリスト再臨以前の事柄に関しては、教会人はその信仰的理解に基く「共感」を有しているといえる。然し再臨以後の事態に関しては教会は、之に対する「共感」の唯一の基盤たるべき「体験」を欠いている為に、その「共感」を有ちたくても有ち得ないという限界をもつのである。従って、黙示録の象徴的用語は、強いて辞義通りその解釈を押し進めんとすれば、とんでもない結果になる。今日まで黙示録に対する解釈としては、主に過去的解釈・現在的解釈・未来的解釈の立場がとられ、その部分部分の解釈に対しては、これを象徴的に採る者も辞義的に解する者もあり、各人各様といわれるほどに異っている。勿論本書が録された当時においては、本書を受け取る読者の間には、これ等の象徴は殆んど凡て理解せられていたに違いない。然し今日ではその本来意図した処が殆んど不明である事からいっても、黙示録の含む暗号解読の業は極めて困難であり、これを独断的に断定することは断じて避けなければならない。
⁋然もこの事は、暗号解読の努力を放棄せよという事を意味するのではない。そこに象徴せられている事柄が、誰人が見ても明かである点を、その全体理解の基礎とし・手懸としてこれの指し示している処を理解するよう、万全の努力を払うべきであることはいう迄もない。
⁋此の黙示録を理解せんとするに際して、今日の基督者は、一つの神学的困難にまどわされる危険をもっている。それは現代神学の普及版に於て、「終末観」が現在的にのみ把握せられて強いるという事である。然し聖書解釈に当ては斯かることは、厳重に避けられなければならない。というのは新約聖書に於ては、終末観が三つの仕方に於て理解せられているからである。その一は共観福音書及び書簡の大多数に於ける・二つの世界の「時間的前後関係」に於ける把握であり、その二はヘブル書に於ける「空間的上下関係」に於ける把握であり(八章一ー五節)、その三 はヨハネ伝に於ける「永遠的現在関係」に於ける把握である (十七章三節・五章二十五節等)。 従って聖書的に云えば、「終末」は此の三種の把握の仕方の矛盾的統一に由る把握でなければならない。即ちそれは三者それぞれにその緊張的価値を与え、而してそれら凡てを超えたる一点に於て、統一的に把握せらるべきである。その一のみを採って他を排し・それのみを真なりとする理解は誤謬である。今黙示録の「歴史末的終末」の解釈に当って吾人は、此の点を銘記しつつ進むべきである。

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第三章 預言書>預言書終わり、次は第一節 ヨハネ黙示録概説1

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