第二章 第二十節 ユダ書概説 3

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第一  不敬虔者に対する宣告 (三節ー四節)

⁋筆者は宛名の人々に対して間安的に、奨励の言を書き贈らんとしていた処へ、彼らの間に異端者が、「潜り入りた」る事を知らせられ、急遽「聖徒の一と度び伝えられたる信仰のために戦わんことを勧」めんが為にこの書を書き贈った。しかしてその異端者に就て二つの事を述ベ一方には

「敬虔ならずして我らの神の恩恵を好色に易(か)へ」

といい、他方には「唯一の主なる我らの主イエス・キリストを否むもの」なりといっている。しかして

「彼らがこの審判を受くべきことは昔より預じめ録されたり」

と、彼らに対する宣告を明瞭にしている(四節)。

第二 不敬虔者に対する認識(五節ー十六節)

⁋この部分には進んで前項において審判を宣告せられたる不敬虔者に対する認識が語られている。殊にこの事は困難であったようにみえる。というのはこれらの異端者らは、

「汝らと共に宴席にあずかり、その愛餐の暗礁(かくれいわ)たり」

といわれている如く(十二節)、信仰者らと教会における交りをなすのみならず、彼の「愛餐」(Agape-Agapai)にさえあずかっていたというのである。この愛餐とは、聖餐の時に当って、会員一同が飲食物をもちよって、愛の交りのうちに食を共にした会で、コリント教会においてもその原始的の形があったものと見え、その濫用が戒められている(前書十一章十七節以下)。従って普通の信仰者にはこれを識別することは、必ずしも容易ではなかったであろう。彼らは斯くして教会の内部に働きかけて、福音の異質化、信仰の異質化を企てんとする人々であった。即ち今日に例えていえば、一つの国家内に敵国からスパイ的に潜入した人物に比すべき存在であった。斯かるスパイ的存在が教会内にもあるという事実を本書は鋭く指摘するのである。
⁋教会内に潜り入るスパイ的存在の特徴は何であるかというに、本書は、福音の異質化を企てる斯くの如き者の特徴は彼らの倫理的頽落にあるという。背信は背倫と不可分離な現象であるというのである(十節・十三節)。この事に対する神の審きを教会の脳裡にえりつけるため、本書は旧約正典及び正典外の書物から、実例を多く引照して述べている(五節以下)。出埃及後のイスラエルの背信による荒野彷徨四十年の出来事、堕落せる天使の永久の刑罰、ソドム・ゴモラ・ カインの道・バラムの迷、コラの謀反等が新たに想起せしめられている。ソドム・ゴモラが特に顕著な背倫の象徴であることは、旧約の創世記第十九章の記録によっても知られる。即ちソドム・ゴモラはこの町の住民の不倫の故に、 神が「硫黄と火」を天よりふらしめた処であり (十九章二十四節)、以後これらは不倫の罪の極致に対する神の審判の象徴とせられた処である。
⁋それ故本書も、

「ソドム・ゴモラ及びその周囲の町々も亦これと同じく、淫行に耽(ふけ)り、背倫の肉欲に走り、永遠の火の刑罰をうけて鑑とせられたり。斯くの如く、かの夢みる者ども肉を汚し、権威ある者を軽じ、尊き者を罵る」

と述べている(七節)。この書が特に指摘している不敬虔は、いわば人間の貪欲と性欲との問題であり、この両者は聖書においても、人間の罪悪の究極的類型として注目せしめているものである。旧約のゼカリヤ書は特にこの両者を象徴的に提示している。即ち預言者が

「全地において彼等の形状は是のごとし」

と御使から示されたのは「エパ升」であり、エパ升の中には「婦人(おんな)」が坐していた(五章五節以下)。エパ升とは人間の金銭に対する欲、即ち営利主義を象徴し、その中に坐っている婦人とは、この営利主義と離され難く結びついている人の性欲の象徴であり、これら両者が、罪悪の二大類型として指摘されて いる。営利と性欲とは人間の生を存続せしめる為の根本的欲求であり、いうまでもなく、この二つをもつということそれ自体が罪悪を構成することにはならない。然しそれらが誤れる他者犠牲の方法に依て満足させられる処に、罪悪が構成せられるのである。この人間の根源的背倫に対しての審判は、エノク書(旧約正典外の書)よりの引照なる

「視よ、主はその聖なる千万の衆を率いて来りたまえり。これ凡ての人の審判をなし、すべて敬虔ならぬ者の不敬虔を行いたる不敬虔の凡ての業と、敬虔ならぬ罪人の、主に逆いて語りたる凡ての甚だしき言とを責め給わんとてなり」

という言に依て指示されている(十四節以下)。

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第二章 教会書>第二十節 ユダ書概説 3 終わり、次は第二十節 ユダ書概説 4

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