第二章 第十九節 ヨハネ書簡概説 8

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二  ヨハネ第二概書説 2

第一 真理に基く聖愛 (四節―六節)

⁋ここでは・教会に対しては特に真理に従う歩みと相互愛が要請されている。然かもその愛は生れつきの自己愛ではなくして、誡(いましめ)としての他者愛であることに注意せしめ、誡命に従うことが即ち愛する事であると規定されている。この愛の誡命とは、ヨハネ伝に主の遺訓として語られた処のものである。即ち主は弟子たちに対し、

「われ新しき誡命を汝らに与う、なんじら相愛すべし。わが汝らを愛せし如く、汝らも相愛すべし、互に相愛することをせば、之によりて人みな汝らの我が弟子たるを知らん」

と語り給うた(十三章三十四節)。愛と真理とは相互に両極的のものであり、行為と信仰の関係の如く、愛なき真理は空虚であり、真理なき愛は盲目だからである。

第二 真理に基く峻別 (七節以下) 

⁋教会を支配する愛が、真理と緊張的な愛である限り、そこには真理と非真理、キリストと非(反)キリスト、ひいては教会と世との峻別が保たれる。教会が世に勝つということは先ず、反キリストの峻別に始まらねばならない。

「人を惑わす者多く世にいで、イエス・キリストの肉体にて来り給いしことを云い表わさず、斯かる者は人を惑わす者にして、非(反)キリストなり」

と警告されている(七節)。愛が真理に基く限り、その愛は惑わすものを、それと見破る峻別力の鋭さをもつ筈である。愛する者こそものの真相を見分け得る者だからである。普通、愛は盲目だといわれる。がそれは愛の包容性に対する言である。真の愛は包容すると共にこれを審判し、これを峻別する。真理とは抑(そ)も真と偽とを分ち、偽を審き、真を立てること故そこには必然的に審判が生れる。いわゆる「裸の真理は危険だ」とはこの真理の審判力をいったものである。然しキリスト教の真理はアガペと緊張的な真理である。
⁋さてその見破らるべき反キリストは、本書によれば、教会の外にではなく、教会の「中」に座をもつ惑わし者である。即ち反キリストとはイエス・キリストの真理の凡てを全面的に否定する者ではなくして、それを割り引きするか、または一部を信じて他を否認する者を指している。

「イエス・キリストの肉体にて来り給いしことを云い表わさ」

ぬとは、その割り引き的解釈を指摘したものである。此の割り引き的解釈あるいは受肉否認の解釈こそ、ヨハネ第一書が断言的に告げた処を覆(くつが)えすものである。即ち「教会は既に世に勝てり」という教会の根源的にして且つ生命的な「所与」を覆(かく)すことに由て、教会をして世に敗北せしめんとするのが非キリストの意図だからである。
⁋彼らこそは恐るべき教会の敵である。故に本書の差し出し人は、

「なんじら我らが働きし所を空しくせず、満ち足れる報を得んために自ら心せよ」

と要請する(八節)。何故なら

「凡そキリストの教に居らずして、之を越えゆく者は神を有たず、キリストの教におる者は父と子とを有(も)つ」

からである(九節)。「之を越えゆく者」とは(goes onward-proagon)、進歩派という如き意味であるが、事実はキリストの受肉を否定する事において、キリスト教の真理を致命的に割り引きし、世のいわゆる理性と妥協する者である。
⁋然れば斯かる非(反)キリストの働きかけに対して、教会は決然たる否定的態度を採るべく要請される。

「人もし此の教を有たずして汝らに来らば、之を家に入るな、安かれと云うな。之に安かれと云う者は、その悪しき行為に与(くみ)するなり」

という激しい表現が記されている。これこそアガペの峻別的または審判的側面である。斯かる者との挨拶の交換さえ、彼らの謬れる世との妥協に場を与える行為となるというのである。

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第二章 教会書>第十九節 ヨハネ書簡概 8 終わり、次は第十九節 ヨハネ書簡概 9

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