第二章 第十九節 ヨハネ書簡概説 5

ホーム渡辺・岡村著書新約聖書各巻概説>第二章 教会書>第十九節 ヨハネ書簡概

一 ヨハネ第一書概説 5

第二 交りを成りたたしめる聖愛 (三章―四章)

⁋この部分は

「視よ、父の我らに賜いし愛の如何に大いなるかを」

という感歎詞を以て始められ、人をして神とその独子イエス・キリストとの交際に与からしめるアガペ(聖愛)を注目せしめている。この部分の中心は

「主は我らの為に生命を捨てたまえり、之によりて愛ということを知りたり、我等もまた兄弟のために生命を捨つべきなり」

という言に述べられている(三章十六節)。この言は二つのことを指摘している。第一は・アガペとしての愛は主から来りしものであって、下からのものでないということである。主の十字架における自己犠牲に示されたアガペによって初めて愛ということが知られた。然らば下からの愛は何であろうか。アガペが自己犠牲を本質とする他者愛であるのに反して、人間の生れつきもつ愛は自己愛(エロス)である。故に人間愛としてのエロスは絶対にアガペに対立するものである。エロスは自己愛を本質とするが故に、それは必ず他者犠牲として徹底されずしては已まないからである。「おおよそ兄弟を憎む者は即ち人を殺す者なり、凡そ人を殺す者の、その内に永遠の生命なきを汝らは知る」と記され(三章十五節)、ここに他者犠牲に終るエロスと、自己犠牲に始るアガペとが、鋭く対照されている。活かすアガペは上よりであり、殺すエロスは下から出る。従って、アガペなる主との交際を通してのみ、人間はこのアガペを賦与(ふよ)される。アガペは主との交際においてしか実在しないからである。然ればこの交際としてのアガペに与かる者は、エロスを本質とする世からは異質的な存在である。

「兄弟よ、世は汝らを憎むと怪しむな。われら兄弟を愛するによりて、死より生命に移りしを知る、愛せぬ者は死のうちに居る」

と述べられている(同十三・十四節)。これをつきつめれば、愛(アガぺ)なきことが罪なのである。

「おおよそ主に居る者は罪を犯さず、おおよそ罪を犯す者は未だ主を見ず、主を知らぬなり」

と記し(同六節)、アガペの有無も罪の有無も凡て規準は、その人が、「主に居る」か、「主に居らぬか」の一点にかかっていると断言する。
⁋ここに指摘されている第二の事は・この交際としてのアガペに与からしめられることにおいて、人は自己愛から他者愛へ・他者犠牲から自己犠牲へ方向転換せしめられるということである。

「我等もまた兄弟のために生命を捨つべきなり」

とはこの意味である。従って主の誡の言は彼にとり、もはや対象的に掲げられるのではない。彼が「主に居る」事において、この愛としての誡命が完うされる。

「我らもし互に相愛せば、神われらに在し、その愛も亦われらに全うせらる。神、御霊を賜いしに因りて、我ら神に居り、神われらに居給うことを知る」

のである。(四章十三節以下)。しかしてこのアガペに自覚的に生きる者のみ、霊に対する弁別力が鋭くされる事実を指摘し、

「愛する者よ、凡ての霊を信ずな、 その霊の神より出ずるか否かを試みよ。多くの偽預言者、世に出でたればなり。凡そイエス・キリストの肉体にて来り給いしことを云いあらわす霊は神より出ず、なんじら之によりて神の御霊を知るべし。凡そイエスを云い表わさぬ霊は神より出でしに非ず、これは非キリストの霊なり」

と警告している(四章一節以下)。然も直ぐ続いて

「汝らは神より出でし者にして既に彼らに勝てり」

と告げ、主とのアガペの交際に在ることが、人をして世に勝たしめる秘訣であることを告げている(四章四節)。

ーー

第二章 教会書>第十九節 ヨハネ書簡概 5 終わり、次は第十九節 ヨハネ書簡概 6

ホーム渡辺・岡村著書新約聖書各巻概説第二章 教会書>第十九節 ヨハネ書簡概説

 
 

コメントを残す

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう