第二章 第十九節 ヨハネ書簡概説 4

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一 ヨハネ第一書概説 4

第一 交りを可能ならしめる受肉 (一章ー二章)

⁋本書の「交際」という主題はその冒頭の

「太初(はじめ)より有りし所のもの、我らが聞きしところ、目にて見し所、つらつら視て手触りし所のもの、即ち生命の言につきて」

という語り出しに明示されている。「生命の言(ことば)」とは即ちヨハネ伝が語ったロゴス(言)なるキリストである。抑(そ)も言とは交際を交りたらしめるものである。人間の日常の言も交りの場において生れたものである。凡(およ)そ交りなき言は考えられない。ロゴス・キリストも神と人との交りを具現するものに他ならない。永遠の生命なるロゴス・キリストがその永遠性から歩み出て時間の中に交わり給うて、「我等が聞き・目にて見・つらつら視て手触り」得る存在となり給うた。是がイエス・キリストの受肉の意味である。受肉は「交際」の為であったのである。従ってこの生命の言の受肉を証言することも、

「我らの見しところ、聞きし所を汝らに告ぐ、これ汝等をも我らの交際にあずからしめん為なり。我らは父および其の子イエス・キリストの交際に与かるなり」

と記されている如く、その目的を交際の拡大にもつのである。
⁋しかして次にこの神との交際は「」との交際として規定されている(一章五ー十節)。従ってこの交際は生れつきのままの人間の慣れ親しんでいる暗さに対しては、絶対に対立的な他者との交際として自覚される。即ち「神は光にして少しの暗き所なし。もし神と交際ありといいて暗きうちを歩まば、我ら偽りて真理を行わざるなり」と記されている如くである(一章六節以下)。それ故、人間の暗さは益々この光に照らされる事によってその暗さをあばき出される。そこに交りは自己陶酔とはなり得ず、罪の自覚となる。

「もし神の光のうちに在すごとく、光の中を歩まば、我ら互に交際を得、また其の子イエスの血、すべての罪より我らを潔む。もし罪なしと云わば、是みずから欺けるにて真理われらの中になし。もし己の罪を云いあらわさば、神は真実にして正しければ、我らの罪を赦し、凡ての不義より我らを潔め給わん」

とは、罪の自覚と罪の赦しを結果せしめるものとしての交際を指摘する言である。然もこの人間の暗さにも拘らず、これを光なる神との交際に保たしめる者は何であろうか。それは他でもない、交際の為に受肉し給いしキリストである。この事を確認せしめるのが、

「人もし罪を犯さば、我等のために父の前に助主あり、即ち義なるイエス・キリストなり。彼は我らの罪のために宥(なだめ)の供物たり、 啻だに我らの為のみならず、また全世界の為なり」

という言である(二章一節以下)。斯くの如く生命の言なる受肉者は、神と人との交際をはばむ一切の根源を排除し給いし者である。
⁋従って彼を信ずる者に需(もと)められることは、ただこの「主に居る」という一事である。

「その御言を守る者は誠に神の愛、その衷に全うせらる。之によりて我ら彼に在ることを悟る。彼に居ると云う者は、彼の歩み給いしごとく自ら歩むべきなり」

と命じ教えている(二章五節)。然しここで本書は

「愛する者よ、わが汝らに書き贈るは、新しき誡命にあらず、汝らが初めより有てる旧き誡命なり….然れど我が汝らに書き贈るところは、また新しき誡命にして、主にも汝らにも真なり」

と断っていることに注意すべきである。即ちこの「主に居る者の如く歩め」という誡は旧くて新しく・新しくして旧いのである。それが旧いといわれるのは、キリスト者は凡て既に「主に居る」者だからである。即ち

「若子よ、我この書を汝らに贈るは、なんじら主の御名によりて罪を赦されたるに因る」、「汝ら太初より在す者を知りたるに因る」、「なんじら悪しき者に勝ちたるに因る」

と過去完了形を以て記され(二章十二節以下)、また

「我この書を汝らに贈るは、汝ら真理を知らぬ故にあらず、真理を知り、かつ凡ての虚偽の真理より出でぬことを知るに因る」

と記されている如く (同二十一節)、自らの状態の如何「に拘らず」、キリスト者は凡て主との交際に入れられたが故に、「主に居る」者であるからである。
⁋然しそれが旧くて然る新しい誡だといわれるのは、この「既に」という事実を新しく自覚せよという訴にある。本書はこれを

「汝等はその教えしごとく主に居るなり。されば若子よ、主に居れ」

と命じている(同二十七・八節)。然れば此処にいわれている自覚とは、既にキリスト者に味われている「主に居る」という事実を、更に「いま・ここ」に主体的自覚にもたらすという意味の自覚である。「既に主に居る」故に「主に居れ」というこの不可解な構造こそ、交際の本質的要請である。これこそ、交際の本質が「所与」でありつつ・「課題」であり、「立場」でありつつ、「状態」であると一と息に云われなければならない所以である。パウロ書簡のいう所の en Christo とは、正に斯くの如き交際の動的な事柄を意味している。

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第二章 教会書>第十九節 ヨハネ書簡概 4 終わり、次は第十九節 ヨハネ書簡概 5

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