第二章 第十九節 ヨハネ書簡概説 3

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一 ヨハネ第一書概説 3

⁋教会はこの世から生れたものではないにも拘らずこの世に置かれている(ヨハネ伝十七章十四 節ー十八節)。さればこの世に対して異質的な在り方をもつ教会にとっては、世に「勝つか負けるか」の何れかあるのみである。聖書はその終に近ずくに従い、益々終末的色彩が濃く顕われているが、それと同時に、教会に対して「世に勝て」という鞭達は激しくなっている。しかしてこの世に勝つということは、聖書の最後に置かれた黙示録にその頂点を見出している。即ち黙示録の教会の首なるキリストの激励は凡て「勝を得る者には….」という言で結ばれている。啻(た)だ黙示録はその重点を、世に対する羔羊(こひつじ)キリストの未来的勝利の顕現においているが、ヨハネ第一書は、これを現在の教会の「主との交り」という一点に視ている。彼はその目標を 外的顕現にもち、これはそれを内的体認に見出すといえよう。
⁋本書は「主に居る」という言を以て「主との交際」の主題を展開し、「主に居る」ことの真剣な神学的確認こそ、教会をして世とその非キリストとに勝たしめるものであると断言する。即ち本書はその目的を

「われ神の子の名を信ずる汝らに此等のことを書き贈るは、汝らに自ら永遠の生命を有つことを知らしめん為なり」

という言に明示している(五章十三節)。ヨハネ福音書の目標は読者をして「永遠の生命を得しむる」事であった(二十章三十一節)。処が本書は

「永遠の生命を有(も)つことを知らしめん為」

に記された。そこに本書の特色が明示されている。
⁋永遠の生命をもつという事は「主に居ること」である。然しその「主に居る」ということがその人に味われながら、それが自覚的反省とならないと、それは——ルドルフ・オットーのいう——「恍惚神秘主義」に陥り易い。若し哲学的用語を以ていうことが許されるとすれば、この「主に居る」ということが、即自態に止まる限り、この神秘主義的危険が常にそこに残る。然しこれと反対に「主に居る」ということが、対象的に——味われることなしに・眺めることとして——教えられ且つ受け取られると、「主に居る」という教義主義にする危険が発生する。即ち前の危険が「即自的」なることにあったのに対して、この危険は「対自的」なることにあるわけである。この意味において本書は、この「主に居る」ことにおいて体認せられる、「永遠の生命をもつこと」を、その「もつこと」のみで終らしめず、それを「知らしめん為」に記されたものである(前掲の五章十三節)。即ち「主に居る」という一大事実を、彼らに「即自且対自的」に把握せしめんとするのである。
⁋それはパウロ書簡の表現を借りていえば「en Christo」であり・「主との交り」の構造である。主との交際としての en Christo においては、単なる「即自」も単なる「対自」も安定を見出すことができない。いわば神学的反省なき神秘主義の誤も、体験なき教義主義の誤も、本書の「主に居る」という根本主張に由て正しい指標を与えられることになる。

「汝らはその教えしごとく主に居るなり。されば若子よ、主に居れ」

とは、「既に主に居る」という「立場」Standing を、「状態」State として、「主に居れ」という意味である(二章二十七ー八節)。この一見奇異な云い方こそ、実は旧新約聖書を一貫せる恩籠の論理なのである。それは「汝らは主に居ないから・それではいけない・今から主に居るように、努力せよ」というのではない。反対に「汝らは既に恩寵によって主に居るという立場を与えられている」、「それ故に主に居れ」というのである。パウロ的にいえば、「捉えられて・捉える」のであり(ピリピ書三章十二節)、「知られて・知る」のであり(ガラテヤ四章九節)、 ヨハネ的にいえば「愛されて・愛す」のである。(ヨハネ第一書四章十節)。 即ち今日の表現を以てすれば、「所与と課題」または「ガーベ・アウフガーベ」の関係である。
⁋本書は上述の内容をもっているが、次の三部に分たれる。

第一 交りを可能ならしめる受肉 (一章ー二章)
第二 交りを成立たしめる聖愛 (三章ー四章)
第三 交りを実現せしめる証言 (五章)
以下此の区分によって見て行こう。

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第二章 教会書>第十九節 ヨハネ書簡概 3 終わり、次は第十九節 ヨハネ書簡概 4

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