第二章 第十九節 ヨハネ書簡概説 2

ホーム渡辺・岡村著書新約聖書各巻概説>第二章 教会書>第十九節 ヨハネ書簡概

一 ヨハネ第一書概説 2

⁋以上は本書の著者は不明であるが、その特徴として注意しなければならない点である。本書の筆者及び宛名は不明ではあるが、然し本書の目的は極めて明瞭である。即ち筆者は自已が直接に知りし処に立脚して、本書を書き送りし目当ての人々に、彼らが今や直面せんとする異端思想に迷わされないように警告することを目的としている。

「我らが聞きし所・….見し所….触りし所….を汝らに告ぐ ….これ汝等をも我らの交際 (まじわり)にあずからしめん為なり」

といい(一章三節)、また

「われら父のその子を遣わして世の救主となし給いしを見て、その証をなすなり」

といっている(四章十四節)。この意味においてこの筆者は彼の信仰的基礎が間接に伝えられたものではなく、彼自身直結的に、受けたものであると主張していることをみる。しかして彼がその警告の対象としている異端思想は、「偽預言者」とよばれ、「非(反)キリスト」とよばれたるもののそれであり、他の書簡におけるよりもその特徴がより明瞭に指摘せられている。
⁋これ等の異端者の特徴は、キリストの神性を否認せしめ(エビオニズムの如き)、あるいはキリストの人間性を否認せしめ(仮現論の如き)、あるいはキリストにおける神性と人性の結合を否認せしめるものであった (ケリントス說の如き)。これ等の異端思想に対して、本書はこれこそ教会が戦うべき非(反)キリストであることを警告し、この非キリストに教会が勝つ途は、唯だ教会が「主に居る」という一事に由てであると告げる。前掲の如く、この非(反)キリストの霊が今既に世に在る。故に

「世に勝つるのは誰ぞ、イエスを神の子と信ずる者にあらずや」

とは、この非(反)キリストの跳梁に対する本書の挑戦的の言である(五章五節)。
⁋これらの異端に対して、筆者は四つの点から弁証している。その一は・福音の「歴史性」であって、彼が教会における啓示とその存続との「歴史的性格」を強調していることである。即ち現在教会において、この書簡の宛てられたる信仰者らが、信じ且つ常に教えられていることは、彼らが最初からきかせられたことであって、決して途中から作られた話ではない。

「初より聞きし所を汝らの衷(うち)に居らしめよ。初より聞きしところ汝らの衷に居らば、汝らも御子と御父とに居らん」

とは(一章二十四節・三章五十八節・五章六・十一・二十節)、この弁証の基礎を示している言である。その二は・福音の「充全性」である。即ち今教会が信じまた教える教こそ完全なものであるという点である。しかしてこれこそ真の「知る」ということであり、また真の「知識」である。

「汝らは聖なる者より油を注がれたれば、凡ての事を知る。我この書を汝らに贈るは汝ら真理を知らぬ故にあらず。真理を知り、かつ凡ての虚偽の真理より出でぬことを知るに因る」

といいこの点を力説している(二章二十ー二十一節)。その三は・福音の「究極性」である。即ち

「なんじらの衷には・主より注がれたる油とどまる故に、人の汝らに物を教うる要なし」

という言において、この点がよく現われている (同二十七節)。その四は・福音の「克罪性」である。上述の三点は多少福音の形式的性格を示すものであったが、筆者は更に進んで、福音の救拯の能力を述べ、

「おおよそ主に居る者は罪を犯さず、おおよそ罪を犯す者は未だ主を見ず、 主を知らぬなり….凡て神より生るる者は罪を行わず、神の種、その衷に止まるに由る。彼は神より生るる故に罪を犯すこと能わず」

といっている(三章六・九節)。

ーー

第二章 教会書>第十九節 ヨハネ書簡概 2 終わり、次は第十九節 ヨハネ書簡概 3

ホーム渡辺・岡村著書新約聖書各巻概説第二章 教会書>第十九節 ヨハネ書簡概説

 
 

コメントを残す

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう