第二章 第十八節 ペテロ後書概説 5

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第三 主の時への洞察 (三章八節―三章十三節)

⁋欲情に身を委ねる者とは、正しき再臨信仰を有たぬ者である。主の再臨の俟望に生きる者にとり、信仰の弛緩は有り得ないことだからである。本書はこれを

「汝等まず知れ、末の世には嘲ける者嘲笑(あざけり)をもて来り、おのが欲に随(したが)いて歩み、かつ云わん・主の来りたまう約束は何処にありや、先祖たちの眠りしのち、万のもの開闢の初と等しく変らざるなり」

と叙べている (同三節以下)。これは神なき者の必然的人生観であり、虚無主義者の辿りつく必然的結論である。即ちこれは神なきが故に歴史を知らぬ者の告白である。

「さきに有りし者はまた後にあるべし、さきに成りし事はまた後に成るべし、日の下には新しき者あらざるなり。見よ是は新しき者なりと指して云うべき物あるや、其れは我らの前にありし世々に既に久しくありたる者なり」

という伝道書の言は、この人生観の古典的表現という事が出来る(一章九節以下)。
⁋然しこの放言は歴史の洞察の欠如以外の何ものでもないと本書は答える。

「彼らは殊更に次の事を知らざるなり、即ち古(いにしえ)神の言によりて天あり、地は水より出で水によりて成り立ちしが、その時の世は之により水に淹(おぼ)われて滅びたり。されど同じ御言によりて今の天と地とは蓄えられ、火にて焼かれん為に敬虔ならぬ人々の審判と滅亡との日まで保たるるなり」

と(同五節以下)。人間の欲情が王座を占める処・そこから終末観は逃げ去り、そこに必ず信仰の弛緩が結果する。然れば本書は教会の生かさるべき終末的時間意識を覚醒することを緊急事として警告する。それが

「愛する者よ、なんじら此の一事を忘るな。主の御前には一日は千年のごとく、千年は一日のごとし。主その約束を果すに遅きは、或人の遅しと思うが如きにあらず、ただ一人の亡ぶるをも望み給わず、凡ての人の悔改に至らんことを望みて汝らを永忍び給うなり。されど主の日は盗人のごとく来らん、その日には天とどろきて去り、もろもろの天体は焼け崩れ、地とその中にある工とは焼け尽きん。斯く此らのものはみな崩るべければ、汝等いかに潔き行状と敬虔とをもて、神の日の来るを待ち、之を速やかにせんことを勉むべきにあらずや」

という警告である(同八節以下)。 日常の時間の真の意味と全き充実とは、 主の再臨に対する俟望からのみ結果することである。再臨の日の遅延の刻々は、一人でも多くの人の救われんが為の神の忍耐として知られる時、その瞬間瞬間は審判的時間となり、従って再臨に向う緊張的時間として変容されるからである。それ故本書は

「この故に愛する者よ、汝等これを待てば神の前に汚点 (しみ)なく我なく安然(やすらか)に在らんことを勉めよ。 且つわれらの主の寛容を救なりと思え、これは我らの愛する兄弟パウロも、その与えられたる知恵にしたがい、曾(かつ)て汝らに書き贈りし如し」

といっている(同十四節以下)。斯く本書はキリストの力への洞察、しかして暗きの力への洞察のみが、偽教師の誘惑から信者を護り、主の「時」への洞察のみが、 信仰的弛緩から人を護る事を教えている。
⁋この結語の終に

「ますます我らの主なる教主イエス・キリストの恩寵と主を知る知識とに進め」

と、冒頭の「知るによりて」という言に対応して、キリスト教信仰の基盤としての「キリストの知識」をもう一度力説して、この書簡は終っている。

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第二章 教会書>第十八節 ペテロ後書概説 5 終わり、次は第十九節 ヨハネ書簡概 1

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