第二章 第十八節 ペテロ後書概説 4

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第一 主のカへの洞察 (一章三節ー二十一節)

⁋本書は先ず最初に、教会の肢(えだ)たる者の衷(うち)に働く主の力の絶大なるに注視を喚起する。

「キリストの神たる能力は、生命と敬虔とに係わる凡てのものを我らに賜えり」

とはその言である。このキリストの能力については更に

「我らは我らの主イエス・キリストの能力と来り給う事とを汝らに告ぐるに、巧みなる作話を用いざりき、我らは親しくその稜威を見し者なり」

といわれ、その確信はイエスの変貌の出来事の直証に基くものとして述べられている(同十六節以下)。変貌の出来事とは、主イエスが全き人にして同時に全き神たる事を、弟子の眼に確認せしめた出来事であり、イエスの尊貫と栄光を立証する事であった(同十七節以下)。この出来事に由て立証された主の「栄光と徳」こそ、生命と敬虔の凡てのものを吾人に賜物として与え得たからである。このキリストの与え給いし賜物の故に、教会の肢たる者は「神の性質に与かる者」とさせられた。故に「励み勉めて汝らの信仰に徳を加え・徳に知識を・知識に節制を・節制に忍耐を・忍耐に敬虔を・敬虔に兄弟の愛を・兄弟の愛に博愛を加えよ」 と勧めている(同五節以下)。賜が大きければ大きい程、課題もそれに比例して大きく厳しいという論理である。

第二 欲のカへの洞察 (二章一節―三章七節)

⁋光への洞察なくして暗きへの洞察は有り得ない。この部分では、この世の暗きの深みを洞察せしめることにより、もって主の力への洞察欲の力への洞察とは、正比例するという真理を示さんとする。第一の項で語られたキリストの絶大なる賜物は、それに由て我らが

「世に在る欲の滅亡をのがれ、神の性質に与かる者とならん為」

であると云われた(一章四節)。終末の世を彩る情欲の跳梁は、それから人を救わんとする主の力の働く場だからである。この部分には

「されど民のうちに偽預言者おこりき、その如く汝らの中にも偽教師あらん。彼らは滅亡にいたる異端を持ち入れ、己らを買い給いし主をさえ否みて速かなる滅亡を自ら招くなり。また多くの人かれらの好色に随わん」

と述べられ(二章一節以下)、偽教師としての異端の属性が、好色及び貪欲として鋭く指摘されている。その姿は

「かのともがらは恰(あたか)も捕えられ屠らるるために生れたる弁別(わきまえ)なき生物のごとし、知らぬことを譏(そし)り、不義の価をえて、必ず亡ぼさるべし。彼らは昼もなお酒食を快楽とし、誘惑を楽しみ、汝らと共に宴席に与かりて汚点(しみ)となり、瑕(きず)となる。その目は淫婦にて満ち、罪に飽くことなし。彼らは霊魂の定まらぬ者を惑わし、その心は貪欲に慣れて呪詛(のろい)の子たり」

と述べられている(二章十二節以下)。偽教師とは要するに動物的存在である。然も一と度びキリストの光に触れて後堕ちた者の状(さま)は益々悪化するのが常である。その怖ろしさを語るのが

「彼等もし主なる救主イエス・キリストを知るによりて、世の汚穢(けがれ)をのがれしのち復これに纏われて敗くる時はその後の状は前よりもなお悪しくなるなり」

と記された言であり、彼らは恰度「犬おのが吐きたる物に帰り来り、豚身を洗い てまた泥の中に転ぶ」という俚諺(ことわざ)に当る種類の人間であるといわれている(同二十節以下)。

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第二章 教会書>第十八節 ペテロ後書概説 4 終わり、次は第十八節 ペテロ後書概説 5

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