第二章 第十七節 ペテロ前書概説 8

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第二 朽つるものへの責任 (二章十一節ー三章)

⁋この部分には選ばれたる族(やから)なる教会、即ち多くの者の中から抽出されたものの、棄却されたものに対する責任が叙(のべ)られている。然し朽ちざるものを嗣ぐ者の責任は、朽ちざるものへの追求の激しさに比例してのみ果たされる。これを語るのが

「汝らは旅人また宿れる者なれば、霊魂に逆いて戦う肉の慾を避け、異邦人の中にありて行状を美わしく為よ。これ汝らを謗りて悪をおこなう者といへる人々の、汝らの善き行為を見て反って眷顧(かえりみ)の日に神を崇めん為なり」

という警告である(二章十一節以下)。然し天的嗣業の追求の激しさは、断じて現在のこの世の秩序制度の無視となるべきではない。キリスト者は全く何の束縛にも依らぬ自由な者であるが、それを無秩序の自由とはき違てはならない。されば

「なんじらのために凡ての人の立てたる制度に服え。或は上に在る王、或は悪をおこなう者を罰し、善を行う者を賞せんために王より遣わされたる司に服え。善を行いて愚かなる人の無知の言を止むるは、神の御意なればなり。なんじら自由なる者のごとくすとも、その自由をもて悪の覆となさず、神の僕のごとく為よ。なんじら凡ての人を敬い・兄弟を愛し・神を畏れ・王を尊べ」

とは、秩序に対する教会の積極的態度を要請する言である(同十三節―十七節)。
⁋然しこれは此の世と教会との全面的協力を意味しない。これは教会が自由なる者として、朽ちざるものの嗣業者でありながら朽つるものに向って自己を限定する結果に他ならない。何故ならこの世の立つ原理は教会の立つ原理とは全く相容れないからである。それ故に神に選まれた者は、常にこの世からは棄てられたる者であらざるを得ない。

「主は人に棄てられ給えど、神に選ばれたる貴き活ける石」

であるのはこの両者の原理の対立性を語っている。即ち信ずる教会にとってはイエスは貴き石であるが、信ぜぬ世にとっては彼は「造家者らの棄てたる石は、隅の首石となれる」のであって、「つまずく石・礙ぐる岩」である(同四節以下)。然しキリストは

「罪を犯さず、その口に虚偽なく、また罵られて罵らず、苦しめられて脅かさず、正しく審きたまう者に己を委ね、木の上に懸りて、みずから我らの罪を己が身に負い給」

うた。是は他でもない我ら教会をしてその足跡に循わしめんとて模範を遺し給うたのである(同二十一節以下)。続いて筆者は、主に従う教会の当然直面する「義の為の苦痛」の祝福に就いて教えている(三章一節—十七節)。

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第二章 教会書>第十七節 ペテロ前書概説 8 終わり、次は第十七節 ペテロ前書概説 9

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