第二章 第十七節 ペテロ前書概説 5

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⁋この目的を以て録された本書は、諸書簡中稀にみる親愛感を表現せるものである。しかしてそれが本書の中心たる「苦難」と「希望」との二つに表現的輝きを与えている。神学的論理的に は何ら特徴を見せていないこの書簡も、この点からみる時力ある奨励書簡となっている。
⁋本書簡はその宛名にユダヤ的象徴を用いたように、その思想解明の為に、旧約的象徴を用いている。この書簡の受け取り手たる信仰者らは「前には民にあらざりしが今は神の民」とせられ、「選ばれたる族・王なる祭司・潔き国人・神につける民」である(二章九・十節)。しかして「天に蓄へある朽ちず・汚れず・萎(しぼ)まざる嗣業を継がしめ」られたのである(一章四節)。この光栄ある「救」は、旧約の預言者等がつぶさに尋ね究めたことであった(同十節以下)。この恩恵を齎(もたら)し給うたキリストは

「世の創の前より預じめ知られ給いしが、この末の世に現われ給」

うたが、ユダヤ人に棄てられ、「神に選ばれたる尊き活ける石」となり給うた(一章二十節・二章四節)。しかして

「汝らの為に苦難をうけ、汝らを其の足跡に随わしめんとて模範を遺し給うた」

のである (二章二十一節)。此の教の業を完成し給うてのち、

「彼は天に昇りて神の右」

に坐し給うたのである(三章二十二節)。然し筆者は旧約の象徴を用いながら、然も何ら旧約の「律法」 と「奠祇(てんぎ)」とに対する批評らしいことを記していない。この点は確かに注目に価する。
⁋本書簡における叙上の諸点・殊に主イエスの「苦難」と「栄光」とに対する筆者ペテロの思想をみると、極めて興味ある事実を発見する。しかして彼の思想が三段の発展を経ていることが知られる。第一の時代において・彼の問題はイエスのメシヤ性とその苦難との関係が、如何にしても理解できないという点であった。ピリポ・カイザリヤにおいて、彼がイエスの問に対して答えた、「なんじはキリストなり」(マルコ伝八章二十九節)——「神のキリストなり」(ルカ伝九章二十節)・「なんじはキリスト・活ける神の子なり」(マタイ伝十六章十六節)——という告白は、何ら「苦難」を予想していないものであった。そこにイエスが必然的に遭遇すべき苦難として十字架を語り給うたので、「主よ、然(しか)あれざれ」といい、「サタンよ」とイエスの叱責を受けたのであった。しかしてこの彼の考へ方こそ、当時のユダヤ青年の考え方であったということができる第二の時代は・この「苦難」と「栄光」とか、連関させられはしたが、然しその連関は外面的であり、機械的の感のあるものであった。この事はペンテコステ直後の彼の説教においてよく現われている (使徒行伝二章十四節以下)。しかして茲にはイエスを十字架につけたのは「なんじら」即ちユダヤ人であったが、

「神は死の苦難を解きて、彼を甦えらせ給」

うた・という外的関係が、つよく表面に現わされている。第三の時代においては——本書における如く——それらの外的関係は背景にかくれ、イエスの「苦難」と「栄光」とは、実に神の永遠の聖旨に由ることで、世の創(はじまり)の前から予じめ知られていたのだが、今やこの末の代に現われ給うたとして、この二つの点の必然的内面的連関を語っている。

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第二章 教会書>第十七節 ペテロ前書概説 5 終わり、次は第十七節 ペテロ前書概説 6

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