第二章 第十六節ヤコブ書概説13

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第二  行為に依る人格の統御3(三章ー五章)

⁋この富める者への警告と並んで、貧しさ・苦しさのどん底になお忍んで、神のみに事える者への激励が語られている。それは

「兄弟よ、主の来り給うまで耐え忍べ。視よ農夫は地の尊き実を、前と後との雨を得るまで耐え忍びで待つなり。汝らも耐え忍べ、なんじらの心を堅うせよ。主の来り給うこと近ずきたればなり」

という、質朴で然る美しい詩的表現を以て語られている(五章七節以下)。しかしてこの忍耐の模範としてヨブとエリヤのそれを想起せしめ、二心なき信仰者の貫くべき在り方を示している。その結論として述べられたのが

「わが兄弟よ、何事よりも先ず誓うな・或は天・あるいは地・あるいは其の他のものを指して誓うな。只なんじら然りは然り・否は否とせよ。罪に定めらるることなからん為なりと」

いう言で、「手を浄め、二心を去り・心を潔くする」二者選一の態度こそ、信仰を完成する行為統御の秘訣である事を 強調する。
⁋以上見来りし処によって明かな如く、本書は信仰の完成は行為にありとし、人格の統制は即ち行為の統制に他ならずと視る。この点を徹底させる為、ヤコブ書はアブラハムがその子イサクを捧げたその行為に重点をおき、ロマ書とは全く対蹠的な結論を出しているのである。一つ正典の中の同一のアブラハムの生涯の記録から、斯くの如き対立的な結論が引き出されたという事は何に由るのであろうかを、ここに考える必要がある。これは要するに、アブラハムという一個の信仰者の記録において、ロマ書及ガラテヤ書はいわばその生涯の「始点」に重点をおき、ヤコブ書はその「極点」に重点をおいているのであるが、いうまでもなく、アブラハムという一個の信仰的人格は一であって、決して分裂さるべきものではない。ヤコブ書が前述の如く

「霊魂なき体の死にたる者なるが如く、行為なき信仰も死にたるものなり」

というのは、これを指しているので、行為と信仰とは絶対不可分離的なものである。従ってロマ書の「信仰」における重点も、ヤコブ書の「行為」における重点も、それが信仰的決断の声として、相互排除的に読みとられ然もそれがアブラハムという一個の人格において分裂なき統一として保たれていたように、解釈者の裏に両者が「止揚」されて、「統一的把握」とならなければならない。
⁋斯くしてこそ初めて、ロマ書の「信仰義認」とヤコブ書の「行為義認」とが、共に一つの正典という有機体の中におかれている意味が充全に・割り引きなく理解せられるのである。

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第二章 教会書>第十六節ヤコブ書概説 13終わり、次は第十七節 ペテロ前書概説 1

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