第二章 第十六節ヤコブ書概説10

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第一  行為に依る信仰の完成3 (一章二節―二章二十六節)

(3) 行為なき信仰の空虚性 (二章十四節―同二十六節)

⁋この部分は行為なき信仰の空虚性を、信仰の祖アブラハムの実例によって論証せんとする。即ちこの部分は

「わが兄弟よ、人みずから 信仰ありと云いて、もし行為なくば何の森かあらん、斯(かか)る信仰は彼を救い得んや」

という言を以て反省を促し、

「なんじ神は唯一なりと信ずるか、斯(か)く信ずるは善(よ)し、悪鬼も亦信じて慄(わなな)けり、ああ虚しき人よ、なんじ行為なき信仰の徒然(いたずら)なるを知らんと欲するか」

という鋭い表現を以て、心からの服従の行為を伴わぬ信仰は、神に敵対する悪鬼でさえ共有するものであり、従って斯くの如きは信仰ではない事を断言する (二章十九節)。しかして行為なき信仰の空虚なる事を否認する余地を全く絶つ為に、信仰の祖アブラハムの義をもこの観点から分析している。即ち

「我らの父アブラハムはその子イサクを祭壇に献げしとき、行為によりて義とせられたるに非ずや。なんじ見るべし、その信仰・行為と共にはたらき、行為によりて全うせられたるを。またアブラハム神を信じ、その信仰を義と認められたりといえる聖書は成就し、かつ彼は神の友と称えられたり。斯く人の義とせらるるは、ただ信仰のみに由らずして行為に由ることは、汝らの見る所なり」

といい、

「人の義とせらるるは、律法の行為によらず、信仰に由るなり」

と主張する信仰義認論(ロマ書三章二十八節及四章・ガラテヤ書二章十六節)に真正面から対立する行為義認論を提示している。即ち本書は、イサクを献げよとの神の命令に、その独子イサクを献げた信仰の「服従」という行為に——

「エホバ諭(さと)し給う・我己を指して誓う・汝是事を為し、汝の子即ち汝の独子を惜しまざりしに因りて、我大いに汝を祝(めぐ)み」

(創世記二十二章十六ー七節)——信仰の本質を視ている。恰度それは体の有機的構造に比せらるべきであって、霊魂がない体というものは、その有機体を有機体たらしめている要因の喪失ということであるから、それは死せる体にしか過ぎない。行為なき信仰も信仰を信仰たらしめている要因の欠如であるから、斯かる信仰は空虚である。是が

「霊魂なき体の死にたる者なるが如く、行為なき信仰も死にたるものなり」

と結論せられる所以である(二章二十六節)。

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第二章 教会書>第十六節ヤコブ書概説 10終わり、次は第十六節ヤコブ書概説 11

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