第二章 第十六節ヤコブ書概説9

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第一  行為に依る信仰の完成2 (一章二節―二章二十六節)

(2) 聖愛なき信仰の欺瞞性 (一章十九節―二章十三節) 

⁋この部分には

「ただ御言を聞くのみにして、己れを欺く者とならず、之を行う者となれ」

と命じている如く(一章二十二節)、実践を伴わぬ信仰の欺瞞性を語っている。信仰の欺瞞性は「鏡にて己が生れつきの顔を見る人」の比喩を以て述べられている (同二十三節以下)。それは恰度人間が己が生れつきの顔を鏡に映して見て、己れの顔の何うであるかを、写した時だけ認識しても、そこから立ち去ってしまうともはやその認識を失ってしまい、自己反省を全く忘れ去るに等しい。即ち御言を聞くのみで、これを行わぬ者とは、律法が自己の中に活かされ、浸透していないで、彼は律法を自己の外に対象化して置いているに過ぎない。従って律法の鏡に彼が生来のあるがままの姿とその醜さを写した時だけ、自己の穢らしさ・不完全さを認識するが、自己のうちに律法が主体的に浸透しないから、彼には御言が本質的には何の益をも作用を及ぼさないというのである。そこで、彼には何が欠けているかというと、個々の律法の断片的知識ではなくして、「全き律法」即ち「自由の律法」である(同二十五節以下)。然らばこの全き律法・自由の律法とは何であろうか? それは対他的愛、即ち

「おのれの如く汝の隣を愛すべし」

という尊き律法とここに呼ばれているものである(一章八節)。 鏡の如く対象的に人の姿を映す律法ではなくして、人の衷に活きて働く律法が即ち「全き律法」であり、聖愛としての律法である。それは「されど全き律法、すなわち自由の律法を懇(ねん)ごろに見て離れぬ者は、業を行う者にして、聞きて忘るる者にあらず、その行為によりて幸福」となるものであり、「父なる神の前に潔くして汚れなき信心は、孤児(みなしご)と寡婦(やもめ)とをその思難の時に見舞い、また自ら守りて世に汚されぬ」 アガペの行為である (同二十七節)。このアガペのない人は必ず人を偏り視る。それ故

「わが兄弟よ、栄光の主なる我らの主イエス・キリストに対する信仰を保たんには、人を偏り視るな」

といい(二章一節)、 人を偏り視ない——貧しき者・富める者に対して差別待遇をしない——という行為・孤児・やもめへの顧慮こそ、人の信仰を保持するものであるという。「おのれの如く隣を愛する」ことは対他的愛であり、聖愛であるが、人を偏り視ることは対自的愛であり、エロス(性愛)である。従って

「されど若し人を偏り視ば、これ罪を行うなり。 律法なんぢらを犯罪者と定めん。人、律法全体を守ると、その一つに躓かば、是すべてを犯すなり……なんじら自由の律法(即ち愛の律法)によりて審かれんとする者のごとく語り、かつ行うべし」

と命ぜられている(二章九節以下)。アガペのみが律法の全体を全うするからである。

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