第二章 第十六節ヤコブ書概説7

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⁋この事を少しく分析的に述べると、次の如くなる。この相対立せる両書の個性的主張は、何ら割り引きなく、百パーセントその個性的相反において受けとられ、しかしてこれを受けとった解釈者の衷に、この主張が矛盾相剋として戦わされなければならない。その時彼の衷には自ら両主張を低辺とする三角形が形成されざるを得ない。その三角形の頂点とは、相対立的な二主張の「より高き次元における統一」(higher unity) である。このより高き次元の統一は、然し、異れる二主張の単なる総和ではない。加え算の結果の総和は同平面上のものであり、高き次元の統一は立体的なるものの頂点だからである。またこの高き次元の統一は両主張の何れもの生(な)まのままの継続でもない。両主張を一と度び否定し、殺して活かした点即ち「止揚点」 を指すのがこの頂点である。
⁋それでは何故斯くの如き止揚点が解釈の目標とされなければならないのであろうか? それは例えば聖書正典の中のロマ書あるいはガラテヤ書の主張のみに重点が置かれる事になると、そこには反律法主義に陥る危険があり、若し反対にヤコブ書の主張のみが単独に強調されれば、 律法主義に陥る危険がある。この両主張の高き止揚のみが、両主張の何れにも偏(へん)さぬように解釈者を方向ずける指針だからである。聖書正典がその中に六十六冊の個性的主張をもつ書を含むということは、正典自身がこれら個性的主張間の矛盾相剋と、しかしてその解釈者における止揚を「通してしか」語り得ない論理を宿しているという事である。然れば聖書正典の各書の個性的主張の解釈は凡て加え算で行くべきではなく、より高き「止揚」を求める為の掛け算でゆくべきである。

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