第二章 第十六節ヤコブ書概説6

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⁋それというのは、正典の中の六十六冊の各書は、凡て個性的にキリストを証言しているのであり、各書はその個性的主張の鋭さにおいて受け取られ・解釈されることを要求するからである(渡辺善太著「聖書論」第一巻「聖書正典論」参照)。 然ればこれをこれと全く個性的に異れる他の書と加え算をするということは、相互の主張の割り引きをすることを意味し、その本来的鋭さを消して異質的調和にもたらすということになる。 加之(しかのみならず)・その総和の結果は両者の何れでもない第三のものを造り出すという事になる。斯くして 聖書正典の要請する各書の解釈され方には全く背く結果となるからである。
⁋この事はロマ書の信仰義認を語っている旧約的基礎と、ヤコブ書の行為義認を述べている旧約的基礎とを併せ考えることに由り、より明瞭になる。前述の如く両者は共に創世記のアブラハムの伝記の記録に根拠をおいているが、ロマ書は創世記第十五章の

「アブラハム、エホバを信ず、エホバこれを彼の義となしたまえり」(六節)

という言にその論拠をもち、ヤコブ書は同じく創世記第二十二章十六節のアブラハムが燔祭(神への犠牲の供物)としてその独子イサクを献げた記録に論拠をおいている。前者は明らかに、何らの行為的表現なく、純粋に内面的信仰的の表現をしている言であり、そこに忠実に根拠をおく以上、それは信仰義認の主張とならざるを得ないし、後者はアブラハムがその晩年独り子イサクを献げよという神の命令に服従した行為にその根拠をおく以上、行為義認の主張とならざるを得ない。しかして両書はそれぞれがその論拠とする聖書の箇所を固守しているわけである。処がこの両者を全然分離してしまうことは絶対に許されない。いうまでもなくアブラハムの記録はアブラハムという一信仰的人格の渾然たる生涯を描いているのであり、従ってこれを解釈する途は、両者を全く相反的に理解すると同時に、然もこれを渾一的理解にもたらすということでなければならないからである。

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第二章 教会書>第十六節ヤコブ書概説 06 終わり、次は第十六節ヤコブ書概説 07

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