第二章 第十六節ヤコブ書概説4

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⁋更に彼はパウロのいう処によると、全教会の「柱とおもわ」れる位置を占めていた(ガラテヤ書二章九節)。しかして如何なる程度においてか決定できないが、いわゆるユダヤ的キリスト教の主張者であり、またその代表者であったかのように思われる。パウロがアンテオケ教会において、先輩ペテロ(ケパ)を面責した時、

「或る人々のヤコブの許より来るまでは」

といってペテロがその人々をはばかった事を記している(同十二節)。これらのヤコブに就ての言及は、彼の母教会としてのエルサレム教会における位置の重要なりしことを、充分に示している。
⁋イエスとその宣教とに対して、反感または嘲笑的態度をとっていた兄弟らの一人ヤコブが、斯くの如く変化したのは、如何なる理由にょったものであろうか? 新約聖書はこれに対して充分な説明を与えていない。啻(た)だそこに二つの重要な言及が見出される。一は使徒パウロが復活の主が「次にヤコブに現われ」と記していることである(コリント前書十五章七節)。簡単ながらこの言は、この関係において極めて重要な意義をもっている。否・簡単であるから、この言に価値があるといわなければならない。というのは、斯かる重要なことを、斯くの如く簡単に書いているということそれ自身が、この事が使徒時代に、周知のことで、敢えて言を多く費す必要がなかったことを、示しているといわなければならない。次の言及は、ペンテコステ直前のこととして、イエスの昇天を仰いでエルサレムに帰り、高楼で「ひたすら祈をつとめ」ていた人々の中に、「イエスの母マリヤ・イエスの兄弟たち」が記されている事である(使徒行伝一章十四節)このイエスの家族における、対イエスの心境の大変化は、前述の復活のイエスが「ヤコブに現われ」たということに、その原因をもっていたようにおもわれる。
⁋叙上の諸事情はイエスの兄弟ヤコブの母教会における重要な位置を充分に示している。このヤコブ書がこのヤコブによって記されたものとせられてきたのは、忠実に新約聖書を通読する者にとっては、極めて自然なことである。

⁋ヤコブ書は前述の如く

「神および主イエス・キリストの僕ヤコブ」

から、「散り居る十二の族」に送られた書簡である。本書は全体百八節からなり、その半分(五十四節)は命令形で記されている。その形式から見ると旧約知恵文学の箴言に似ている。しかして読者に対する深き同情を示してはいるが、これに対する賞讃の言は一つだに記されていない事が注意される。
⁋本書は思想的にいって、ユダヤ・キリスト教会のそれを反映している。即ちロマ書・ガラテヤ書の主張する「信仰義認」とは対蹠的(反対)にヤコブ書の主張は「行為義認」である。即ちこれを要約的に示せば、ロマ書・ガラテヤ書は、「信仰なき行為は盲目である」というなら、ヤコブ書は「行為なき信仰は空虚である」と主張する(ロマ書四章・ガラテヤ書二章・ヤコブ書一章二十六節・二章二十六節)。即ちロマ書は

「アブラハム若(も)し行為によりて義とせられたらんには誇るべき所あり、然れど神の前には有ることなし。聖書に何といえるか・アブラハム神を信ず、その信仰を義と認められたり」

と、その信仰義認論を述べ(四章二ー三節)、それに対立的にヤコブ書は

「ああ虚しき人よ、なんじ行為なき信仰の徒然(つれずれ)なるを知らんと欲するか。我らの父アブラハムはその子イサクを祭壇に献げしとき行為によりて義とせられたるに非ずや。汝見るべし、その信仰、行為と共にはたらき、行為によりて全うせられたるを。……斯く人の義とせらるるは、ただ信仰のみに由らずして、行為に由ることは、汝らの見る所なり」

とその行為義認論を述べている(二章二十一及二十四節)。

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第二章 教会書>第十六節ヤコブ書概説 04  終わり、次は第十六節ヤコブ書概説 05

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