第二章 第十六節ヤコブ書概説2

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⁋然しこの宛名が、一つの象徴的宛名であったとしても、それは一つのユダヤ的象徴であって一般的異邦人教会または異邦人信徒に対する、象徴的宛名と考えるのは無理である。殊に本書の内容そのものが、勿論異邦人信徒に対していい得られないものとは断定できないが、少くとも、その全体を通読して与えられる印象は、ユダヤ的基督者一般に宛てられたものならんと考えるのが、自然であるように思われる。
⁋次に本書の筆者は自らを、「主イエス・キリストの僕ヤコブ」といっているが(一章一節)、このヤコブとは果してどのヤコブかということが、本書理解に対する一つの重要な問題となる。いったいイエスの周囲には、ヨハネの兄弟なるヤコブ(マルコ伝三章十七節)、アルパヨの子なる ヤコブ(同三章十八節)、イエスの母ならざるマリヤの子小ヤコブ(同十五章四十節)、及びイエスの兄弟ヤコブ(同六章三節)、ユダの父または兄弟なるヤコブ(ルカ伝六章十六節)等があった。これらのうち――アルパヨの子ヤコブと、ユダの父または兄弟なるヤコブとに関しては問題があるが――ヤコブ書の筆者が自ら「ヤコブ」と名乗っているのは、何(いず)れのヤコブであろうか、ヤコブ書自身からは、これを決定すべき何らの内証はない。然し本書の内容がユダヤ的色彩が濃く、またその受け取り手が前述のようにユダヤ的キリスト者一般であったであろうという想像とは、当然このヤコブを、新約聖書中に現われているユダヤ的キリスト教の指導者であったヤコブ、即ちイエスの兄弟ヤコブと連関させる。恐らくこの両ヤコブを同一人なりとしたことが本書を新約聖書中に含ませるようにさせた、一つの理由であったかも知れない。しかしてこの両者を同一なりとする想定は、新約聖書全巻を熟知する者に、当然起ってくる想定である。然らばこのイエスの兄弟なるヤコブは、新約聖書中において、如何なる位置をもっているか。

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